92年阪神の快進撃に不可欠だった守護神・田村勤。ケガで無念の離脱も「投手人生のなかでいちばん輝けた」 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

阪神に楽しみを与えてくれた

 8月13日、田村は再登録された。左ヒジが回復したわけではなく、一度、一軍に同行して、復帰を期待する首脳陣に状態を見てもらうためだった。結果、キャッチボールの段階から出る痛みが引かないことが確認され、同20日に再び登録を抹消されると大石コーチが言った。「田村は阪神に楽しみを与えてくれた功労者。もう無理はさせられませんよ」と。

「後半戦はリハビリを続ける日々でした。テレビで試合を見てると、自分が出て行きそうな場面でマイク(仲田)とか湯舟とかが行ってるので『迷惑かけちゃってるなあ』って。先発なのに抑えって、調整の仕方から違うので、なかなかやりづらかったんだろうな、と思います」

 優勝が決まれば祝勝会に呼ばれるはずだったが、自身の不在も響き、叶わなかった。翌93年の田村は6月に復帰し、抑えとして1勝22セーブを挙げる活躍。その後は左肩の故障によるブランクもありながら投げ続け、2001年にオリックスに移籍。02年限りで現役引退となった。12年間のプロ野球人生のなか、1992年は田村にとってどんなシーズンだったのか。

「92年、93年も抑えをやらせてもらって、調子がそこまで悪くない時はマウンドで躍動できました。自分の投手人生のなかでいちばん輝けたのかなと思います。しんどい場面で行って、抑えた時はプレッシャーを跳ね返せたっていう感じがする。それが愉しかったですね」

 愉しさの陰で肩・ヒジを故障した経験から、第二の人生はケガの施術を生業とし、現在は個別にアマチュア選手の治療に当たる。一方で球児たちの指導も行ない、石川・金沢龍谷高、静岡・藤枝明誠高のコーチを務める。いま田村は、技術だけでなく体のケアのことも少しでも伝えていければと考えている。

(=敬称略)

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