92年阪神の快進撃に不可欠だった守護神・田村勤。ケガで無念の離脱も「投手人生のなかでいちばん輝けた」 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

開幕から23試合目の登板で初黒星

 無我夢中で結果を出し続けてきた田村だったが、6月6日、札幌円山球場での横浜大洋(現・DeNA)戦で記録が途切れる。8回一死一、二塁で先発の仲田に代わって登板。後続は断ったが、3対2と1点リードの9回裏、先頭の進藤達哉に本塁打を浴び、同点とされた。延長戦に入って10回裏は無失点に抑えるも、同球場はナイター設備がなく、日没コールドでゲームセット。

 3対3の引き分けに終わり、田村の連続セーブポイントは15で止まった。また、5月31日の巨人戦からこの試合の8回まで続けていた連続奪三振記録も、進藤に打たれて8人でストップ。日本記録の9者連続三振には届かず。チームとしても、優勝した85年以来の単独首位に立てなかった。

「セーブポイントと連続三振のこともあって、いろんな意味で進藤との対決が悔しかったです。でも、じつはその頃からヒジがね......まあまあヤバかったんです。だんだん注目を浴びてきて、マスコミの取材が増えてきた頃でしたから、隠すのがしんどかったですね。取材はありがたかったですけど、今にして思えば、1年目の登板とブルペンが響いてましたよ」

 それでも、6月はその後の登板で無失点を続け、3イニングを投げる試合もあった。だが、同28日の中日戦。味方打線が8回に3点を取って7対5と逆転し、9回に登板した田村だったが2点リードを守れず。開幕から23試合目の登板で初黒星が記録された。

 試合後、中村勝広監督は「ずっと踏ん張り続けてきたからね」と田村を労(いたわ)った。選手会長の和田豊も「田村で負けたのなら、しょうがないよ」と言った。しかし田村のヒジは限界に達し、7月3日、ブラウンに同点本塁打を浴びた広島戦が92年最後の登板になった。24試合で5勝1敗14セーブ、41回を投げて防御率1.10という成績を残し、同10日に登録を抹消された。

「僕はアマ時代に肩・ヒジを痛めたことがあまりなくて、故障がどういうものなのか、よくわからなかったんです。丈夫で、投げ込みが好きで、ボールを触るのが好きで、しょっちゅう投げてたんで。プロに入ってなんとなく異変を感じるようになってからも、投げてるうちに治るんじゃないかと思ってしまって。なんだかわからないうちに痛くなっちゃいました」

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