シドニーで悲願の銀メダル。中村真衣を支えた母と同級生の励まし (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • Photo by Jun Tsukida/AFLO SPORT

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 中村は、小学6年生までバタフライの選手だった。だが、キツイ練習がイヤで、6年生の夏のジュニアオリンピック後に練習を何週間も休んでしまった。そして、当時指導を受けていた竹村吉昭コーチに「好きな背泳ぎなら練習に行ける」と相談。それ以来、背泳ぎの選手になった。

 中学1年生で日本選手権に初出場し、中学3年生だった94年には、日本選手権100mで初優勝。すると、中村本人は「ジュニアの遠征メンバーに選ばれたいと思っていた」ところへ、いきなり世界選手権代表に選出された。結果は、100m11位、200m8位だった。

「そこで初めて世界を知りました。スイミングマガジンに載っている選手の泳ぎを見て、『すごいな......』と。『いつか自分も世界大会の決勝に残ってメダルを獲りたい』という思いが芽生えたのは、あの時です」

 中村は、アトランタ五輪では決勝に残り、「心の中で代表になれたことに満足していた部分があった」と言う。だが、僅差で敗れてメダルを逃した悔しさは大きかった。また、どんなものかもわからなかった五輪でメダルに手が届くと実感したことで、「絶対に五輪でメダル」と決意を新たにした。

 それが、98年世界選手権での銀メダル獲得につながった。翌99年には、シドニーで行なわれたパンパシフィック選手権で優勝。00年4月の日本選手権でも1分00秒78の日本記録を出して万全な状態で、シドニー五輪にメダル候補として臨んだ。

 だが、緊張感は大きかった。

「レースの前日は『明日の今ごろはもう競技が終わっているんだな』と考えてしまい、レース当日の招集所では『10分後にはもう結果がわかっているんだ』と思うと、すごく怖くなってしまいました。しかも、100m背泳ぎは競技2日目の最初の種目だったので、一緒に出場した稲田法子ちゃんと『どうしよう、もう帰りたいよぉ』と言っていたんです」

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