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先駆者・藤原新が振り返るプロランナーという生き方「周囲の視線が怖かった」「大迫選手のようになりたかった(笑)」 (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【故障を経験していなければ、人の痛みや苦しみを理解できなかった】

 だが、その故障が藤原の人間的な成長を促してくれた。

「故障を経験していなければ、練習でタレた選手に対して『なんでできないんだ、バカヤロー』と言い放つような、人の痛みや苦しみが理解できない人間になっていたんじゃないかなと思います」

 藤原は2019年4月、スズキ浜松AC(現・スズキAC)の長距離走・男子コーチに就任した(現在は男子マラソン監督)。自身の口からは引退の言葉はなかったが、事実上の引退でもあった。競技人生を振り返った時、藤原はなぜ走り続けたのかと問うと、こう答えた。

「どこまでいけるんだろうって、自分の限界を知りたかったからですね。走り続けていくなかで、陸上やプロの世界はそんなに甘くないだろうと思いつつも、意外と前にいけた。そうして、オリンピック(北京大会)の補欠になり、ロンドン(大会)では出場できた。壁は何度も経験したんですけど、限界もなかなか見えてこなかったので、もう少し、もっと深みまで続けてみようという思いで走ってきた感じです」

 実業団からプロのランナーになり、自分の能力だけを頼りにチャレンジするなかで、認められることの喜びと社会の怖さを経験することができた。ただ、大きな舞台で成功することができなかった。

「そこで成功することができていれば、またちょっと違う道が開けたかもしれない。そういう意味では、大迫(傑)選手はすばらしいと思います。僕も彼のようになりたかった(笑)」

 藤原はそう言った。

「大迫選手は、箱根駅伝で活躍して交渉力を持った状態で実業団に駒を進め、基盤を固め、それをもとにしてアメリカに行った。そこでさらに競技力を上げてプロになり、世界にチャレンジしていった。トップステージにいることに慣れているし、ノイズが大きくなるとアメリカに行き、自分をしっかりコントロールしている。

 でも、僕は箱根でつまずき、その時点で能力が足りないんですけど、実業団チームと大きな契約が取れる選手ではなかった。卒業後、ぽっとトップステージに現われ、神輿に担がれて、ワーワー言うだけで軸足がブレていた。途中までは、自分がやりたいことが実現できたけど、大迫選手のように突き詰めることができなかったし、大舞台で結果を残せなかったのは残念でした」

 競技者としては大迫が藤原を超えて前に進んでいった。だが、藤原がこれから指導者として大迫を超える選手を育成し、五輪など大舞台のスタートラインに立たせる可能性は十分にある――。

(おわり。文中敬称略)

藤原新(ふじわら・あらた)/1981年生まれ、長崎県出身。諫早高校から拓殖大学に進み、箱根駅伝には1年時(1区10位)と3年時(4区4位)の2度出場。JR東日本在籍時の2008年東京マラソンで、日本人トップの2位(2時間8分40秒)で同年の北京五輪の補欠に選出。2010年にJR東日本を退社し、プロランナーとしての活動を始めると、2012年の東京マラソンで自己ベストを更新し(2時間0748秒)、ロンドン五輪の代表に選出、本番では45位に終わる。現在はスズキACの男子マラソン監督を務める。

著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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