先駆者・藤原新が振り返るプロランナーという生き方「周囲の視線が怖かった」「大迫選手のようになりたかった(笑)」 (3ページ目)
【ロンドン五輪は45位惨敗も、後悔はない】
2012年8月12日、ロンドン五輪の男子マラソンがスタートした。最初に3.571kmを走ってから、12.875kmの周回コースを3周するレースで、藤原は先頭集団に入ってレースを展開していた。20kmでキツくなり始めたが、25kmを超えても藤原は粘っていた。30km地点では、優勝候補の一番手に挙げられていたウィルソン・キプサング(ケニア)の後ろについた。
「もうめちゃくちゃキツかったです。オリンピックだから最大限がんばって30kmまではいけたんです。でも、そこで両脚(のふくらはぎ)が攣ってしまって......。これ以上は無理だと思い、そこからペースダウンしてしまいました。35kmからの5kmは20分21秒もかかって、もう最後は重たい脚を引きずって走るみたいな感じで終わりました」
初の五輪は、2時間19分11秒で日本選手最下位の45位に終わった(※中本健太郎が6位、山本亮が40位)。ただ、結果を出せない悔しさはあったが、もっとこうしておけばよかったという後悔は不思議となかった。
「この時、金メダルを獲得したのはスティーブン・キプロティチ(ウガンダ)だったのですが、僕はそのシーズンの東京マラソンで彼をラスト200mで抜いて競り勝っているんです。勝負してメダルを獲れた、獲れなかったというのは結果論で、大事なことは可能性がある状態でオリンピックのスタートラインに立ったこと。そういう意味では僕にもメダルを獲れた可能性があったし、そこまではいけた。結果はダメでしたけどね(苦笑)」
ロンドン五輪後は苦しい時間が続いた。2013年2月の丸亀ハーフマラソンに向けての練習中、左ハムストリングの付け根を痛めたため、同レースと、同じ2月開催の東京マラソンは欠場した。
イスに長時間座っているだけで痛みが出ることもあった。とりわけ走り始めは痛みがひどかった。ただ、それを我慢してしばらく走っていると、徐々に痛みを感じなくなり、なんとか練習をこなした。容易に完治しなかったが、2015年には北海道マラソン、富山マラソン、防府読売マラソンと、マラソン3大会連続連勝を果たした。
翌2016年2月には、リオデジャネイロ五輪の代表選考レースである東京マラソンに出場。だが、またしても35km過ぎに失速。ズルズルと順位を下げて44位(2時間20分23秒)に終わり、2大会続けてのオリンピック出場の夢は砕け散った。
「ケガをしてからは、2016年の東京マラソンまで7レースを走っているんですけど、一度もサブテン(2時間10分以内)をしていないんです。以前は、マラソンを走ると2回に1回は"的"に当たっていたんですけど、ケガをしてからは5回に1回ぐらいで、しかも、ホームランではなく、ツーベースぐらい(苦笑)。自分のレースがまったくできなくなってしまった。
この左ハムの故障がすべてでしたね。もう過去の自分を超えられないし、周囲からは『何やってんだ』って言われる。ロンドン後は本当につらかったです」
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