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【平成の名力士列伝:大善】大阪に始まり大阪に終わった「ご当所力士」の息の長い土俵人生

  • 十枝慶二●取材・文 text by Toeda Keiji

紆余曲折の長い土俵人生で輝きを見せた大善 photo by Jiji Press紆余曲折の長い土俵人生で輝きを見せた大善 photo by Jiji Press

連載・平成の名力士列伝61:大善

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、3月場所にゆかりのある地で生まれ育ち、紆余曲折の土俵人生ながら輝きを放った大善を紹介する。

連載・平成の名力士列伝リスト

【ケガとの戦いを経て入門から10年半で新入幕】

 本場所や巡業などで、地元出身の力士のことを「ご当所力士」といい、「江戸の大関より土地の三段目」という言葉があるように、熱い応援が送られる。そんなご当所力士という言葉が誰よりもピタリとあてはまったのが、平成時代前半に息長く活躍した大善だ。

 昭和39(1964)年生まれで大阪府浪速区出身。稽古熱心で知られ、左四つ寄り、上手投げの正統派の相撲を愚直に磨き続けた。数々の試練を乗り越えて、30歳代半ばにして花を咲かせた。

 実家は、大阪の3月場所会場から歩いて数分の生花店で、父は元横綱・吉葉山の宮城野部屋で三段目まで上がった元力士で、ケガのため土俵を去った後は、3月場所の会場である大阪府立体育会館のすぐそばで生花業を営んでいた。

 3月場所の時期は力士たちも店に訪れるような環境で育った大善だが、少年時代から相撲ではなく野球に打ち込み、名門の浪商高校(現・大阪体育大学浪商高校)に進んだ。しかし、名門だけに部員数も多く、レギュラーへの道は遠いと感じていた高校1年の終わり頃、店を訪れた麒麟児から「相撲ならいつでも試合に出られるよ」と言われて心が動いた。さらに、「関取になったら(病弱だった)お母さんも喜ぶぞ」との言葉が決め手になり、高校を中退。麒麟児の所属する元関脇・金剛の二所ノ関部屋に入門し、昭和56(1981)年3月場所、初土俵を踏んだ。

 力士人生は決して順風満帆ではなかった。高橋山の四股名で序ノ口の番付に載った5月場所は3勝4敗と負け越し。序二段時代には全敗を経験し、三段目時代には力士をあきらめてマゲを切ったこともあった。復帰後も右足首を骨折するなど試練が続く。しかし、まじめな性格で熱心に稽古を積み重ねた成果が表われ、骨折からの復帰後、大善と改名して以降は順調に番付を上げ、昭和63(1988)年3月場所、23歳で新十両に。父の果たせなかった関取昇進の夢を果たした。

 十両昇進後、再び右足首を痛めて十両の座を明け渡し、しばらく幕下生活が続いたが、粘り強く努力を続けて十両に復帰し、平成3(1991)年9月場所、決定戦で貴ノ浪を破って十両優勝。翌11月場所で新入幕を果たした。入門から10年半、26歳での昇進だった。

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著者プロフィール

  • 十枝慶二

    十枝慶二 (とえだ・けいじ)

    1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。

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