高橋尚子の「人生で一番の勝利の瞬間」は金メダルではなく、小出義雄監督の「給料は安いけど、契約社員でよければ来るかい?」 (4ページ目)
【日本記録を出しても、強いという意識は1ミリもなかった】
苦しい練習を乗り越え、結果を必死に求めて走り続けたのは、自分のためでもあるが、小出監督の信頼に応えるためでもあった。
「私の家族は、陸上をすることに賛成ではなかったんです。両親は陸上を続けることの大変さを理解し、最初は陸上で就職できるレベルになっていなかったので、『やめなさい』と言われました。中学、高校、大学の時に応援に来てくれたのは一度だけ。高校2年時に都道府県(対抗女子)駅伝に出た時でしたが、区間45位に終わり、『恥ずかしい』と言って、以降はまったく来なくなりました。そんな状況で小出監督に出会ったんです」
孤独感も覚えながら競技を続けるなか、支えになったのは小出監督の言葉だった。
「小出監督は『お前、陸上しててよかったな。お前はすごいよ。これから世界一になるよ』って会うたびに言うんです。すると、365日後には行けるかもしれないと思っている自分がいたんです。それで私は選手として伸びることができました。監督が私を見つけてくれた。監督が私にとってすべて。だから、五輪に出て恩返しをしたいと思っていました」
ただ、怖さも抱えていた。
「その頃の私はまだ都道府県駅伝で45番の意識なんです(苦笑)。いい記録を1回出しても、継続して結果を出せなかったら元に戻ってしまうかもしれない。それが怖いから頑張り続けないといけない。日本記録を出したから強くなったという意識は1ミリもなくて、弱い時の自分に戻りたくない。その怖さから逃げるために練習をしていました」
そんな恐怖と戦い続け、2000年3月の名古屋国際女子マラソンで優勝し、同年9月のシドニー五輪代表の座を勝ち取った。結果と経験に裏打ちされた小出監督の指導と、それに素直に取り組んだ高橋の向上心とド根性。まさに二人三脚で五輪出場を実現したのである。
(つづく。文中敬称略)
高橋尚子(たかはし・なおこ)/1972年生まれ、岐阜市出身。県岐阜商業高校から大阪学院大学に進み、卒業後に小出義雄監督率いるリクルートに入社。1997年に積水化学へ移り、二度目のマラソンとなる1998年名古屋国際女子マラソンで日本記録を更新して初優勝。同年のアジア大会ではスタート直後から独走し、自身の持つ日本記録を4分以上も更新。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。2001年ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界記録(当時)を樹立。2008年に引退。現在はスポーツキャスター、市民マラソンのゲストなどの普及活動に精力的に取り組んでいる。
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。
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