高橋尚子の「人生で一番の勝利の瞬間」は金メダルではなく、小出義雄監督の「給料は安いけど、契約社員でよければ来るかい?」 (2ページ目)
【リクルート入社後、最初のミーティングで号泣】
晴れてリクルートの一員となった高橋。だが、最初のミーティングで大きなショックを受けることになる。高橋の入社と時を同じくして、小出監督はマラソンの総監督になり、トラック種目の指導をしないことになった。
「最初のミーティングで号泣でした(苦笑)。先輩たちには『なんでQちゃんが泣くの』と言われたんですが、『自分の人生をかけて入ったのに、小出監督の指導を受けられないって、どういうこと?』と思ったんです。ただ、新人の私が言ってもどうなることでもない。とりあえず、自分ができることを一生懸命にやろうと思いました」
小出監督の指導を受けたい気持ちは、ずっと心のなかにあった。そんなある日、高橋が練習終わりの挨拶をスタッフにしているときに、ひとりの先輩が小出監督のもとにやって来て、「監督は(特定の)選手をひいきしている」と抗議をした。
「その時、監督がその先輩に『いつまでも学生気分でいるな。社会人になって、平等に声をかけられたり、見てもらえる人なんていない。みんな自分を売り込んだり、自分が評価されるように工夫して頑張って地位を確立している。俺も人間だから、頑張って、自分の言うことが響く人にしか言わない。見てもらいたいなら、響く選手になれ』と言ったんです。『そうだな。私も響く選手にならないと』と思いました」
練習を全力でこなすのはもちろん、毎日、小出監督にFAXで練習内容の報告をした。すると、時折、小出監督から声をかけてもらえるようになった。そうして半年間が過ぎ、小出監督の指導を受けたい気持ちはさらに募った。そこで高橋は大胆な作戦に出た。
「どうしても小出監督の指導を受けたいと会社に懇願し、1年目の12月にマラソン合宿に参加させてもらったんです。行く以上は、『ダメでした』というわけにはいかないので、必死に先輩方についていきました。そして、堂々と小出監督の指導を受けられるマラソン選手を目指そうと心に決めました」
そして入社2年目の1997年1月、高橋は初マラソンとなる大阪国際女子マラソンに出場。小出監督が「次の有森になる選手」とマスコミに紹介するなど大きな期待を寄せられたものの、2時間31分32秒の7位に終わった。力を出せなかった悔しさだけが残った。
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