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高橋尚子の「人生で一番の勝利の瞬間」は金メダルではなく、小出義雄監督の「給料は安いけど、契約社員でよければ来るかい?」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【過酷な練習を乗り越えた超ポジティブ思考】

 その後、小出監督とチームメイトと共に積水化学へ移籍した高橋をマラソンに本気にさせたのは、同年8月のアテネ世界陸上だった。練習でパートナーを務める先輩の鈴木がマラソンに出場し、金メダルを獲得したのだ。同大会の5000ⅿに出場していた高橋は、現地のホテルでテレビ中継を見ながら応援していたが、レース後半、「これは優勝する!」と確信すると、5kmほど走ってゴール地点に向かった。

「鈴木先輩、おめでとうございます! すごく感動しました!」

 それだけ伝えてホテルに戻った。

「鈴木先輩の優勝は本当にうれしかったですね。練習のパートナーをしていたので、私もマラソンを走っていたら、1番にはなれなくても4番ぐらいになれるかもしれない。そう思い、この時に初めて心の底から『マラソンをやりたい。マラソンをやれば世界に行けるかもしれない』と思ったんです」

 だが、当初は小出監督に練習内容を相談しながらも、自分のやり方を優先した。メニューを自分で考え、自立して競技に取り組んだ大学時代の経験と自負があったからだ。小出監督も「ダメだ」とは言わず、「やってみなさい」と言ってくれた。

「でも、全然伸びないんです。それで、今まで多くの選手を育ててきた監督を信じていこうとなりました。『無理』とか『できない』といった気持ちをいっさい捨て、『自分は人形になろう』と思い、監督のメニューをやると決めたのですが、めちゃくちゃ厳しかったです」

 平日朝の20km走は、ラスト3kmから「フリー」という名のバトルになり、試合さながらの負荷がかかった。ハードな練習が続くため、チームメイトも疲労困憊。休養日(毎週木曜)前となる水曜日の午後練習を抜けてしまう選手も多かった。だが、小出監督が「もったいないなぁ。水曜日の練習が一番伸びるのになぁ」と言うので、高橋は「絶対に外さない。ダメでも走る」と練習を続けた。

「一番苦しい時が一番伸びる時だと思ったんです。この練習を抜いたら、越えられるはずの壁を越えるのを延期することになってしまう。今日、その壁を越えておけば、来週に同じ練習をしても、少しはラクに走れるかもしれない。ここが私にとって一番大事な時だって思って、『苦しい』じゃなく『ラッキー』と思い込むようにして練習をしていました」

 そんな超ポジティブ思考でハードな練習を乗り越えると、その成果がレースで表れた。まず自身2回目のマラソンとなる1998年3月の名古屋国際女子マラソンで、2時間2548秒で日本記録を4秒更新して優勝。さらに同年12月バンコクアジア大会では、高温多湿の過酷な条件のなか、2時間2147秒で優勝。自身の持つ日本記録を4分以上更新し、2位に13分もの差をつける圧勝劇だった。

「(名古屋国際女子で)日本記録を出して優勝した時に、初めて五輪(出場)のレールに乗れたかなと思いました。正直、そこまで来る2年間は苦しかったです。でも、監督を信じてやってきてよかったとあらためて思いました」

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