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【箱根駅伝・今昔の思い】城西大・櫛部静二監督 「早大三羽烏」の一角は理論派コーチ (2ページ目)

  • 牧野 豊/取材・文 Text by Makino Yutaka

――本番では区間の終盤に足元がおぼつかないくらい、厳しい状態となりました(区間14位)。

「実際に走って、大失敗して、皆さんの期待を裏切った。そこで初めて多くの人に期待されていたことに気づいたんですね。周りの方やチームメイトにどれだけ支えられていたのかを身に沁みて感じました」

――食当たりが原因だったと言われていますが、どのような経緯だったのでしょう?

「ちょうどレース2日前の大晦日でした。差し入れでいただいていたナマ物を自分だけ食べていなかったので、食べないと失礼だと思い朝食時に食したら、という感じでした。その日の夜にはかなりひどい症状だったので、病院に行って、点滴も打ちました。元旦には調子が戻っていると感じて、レースでも前半から飛ばして行ったのですが、17km、18kmくらいから一気に体調に異変を感じて......その経験からは本当に学びました」

――2年目は同じ2区で区間9位、そして3年目は1区で区間新記録での区間賞を獲得しチームの総合優勝、4年目は9区区間3位でチームは総合2位でした。

「2年目は、1年目の経験を基にしっかり準備していったのですが、私の中ではやはり失敗でした。前年の雪辱を果たそうというプレッシャーがあったのかもしれません。3年目は1区で、4年目はチーム内で花田、2学年下の渡辺康幸(現・住友電工陸上競技部監督)など強い選手がそろい、2区の候補争いが激しくなり、練習で力を使った記憶があります。結果的に9区を任されたのですが、やはり早大は常に総合優勝への期待を寄せられるチームでしたので、区間賞を取らないと失敗という認識でした。中心選手として結果を残さないとチーム成績に影響を与えることを年々、感じていました」

――でも、3年生の時は1区を区間新記録の区間賞で総合優勝に貢献していますが。

「自分のなかでは、それでいい、とは思えなかったんですね」

――それだけ1年目の失敗は大きな経験だった。

「その後、自分が実業団選手として活動していた時にも引きずりました。早大の時の印象もあり多くの方々から応援をいただいていたのですが、時にプレッシャーとなって、なにかうまくいかなくなるとマイナスの方向に考えてしまうような、トラウマ的な出来事にもなりました」

――選手として、箱根駅伝で学んだことは何でしょうか。

「端的に言えば、走るという行為は個人競技だけど、駅伝は団体競技という難しさがあることです。駅伝は走る人間だけじゃなく、応援する方々や走者以外の立場で支えてくれるチームメイトも含めて成り立っている。一方で、一人の成績がチームに大きな影響を与える競技でもある。批判ではなく、日本以外では成り立っていない独特な競技であり、特に将来を嘱望されている選手にとっては、走るというシンプルな競技をより難しいものにする大会でもあったと思います」

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