「5人目のリレーメンバー」のつらい心情と耐え難い日々 伊東浩司が「アスリートとして得るものはなかった」バルセロナ五輪を振り返る (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 中村博之●撮影 photo by Nakamura Hiroyuki

【目標であり壁であった、高野進】

 兵庫県報徳学園高校3年時に、当時400mで日本ジュニア記録(46秒52)を出した伊東は、1988年には400mで充実期に入っていた高野進がいる東海大に進学した。だが高野の存在はあまりに遠く、「かけ声を掛けながらジョギングをしていた高校時代から、いきなりアスリートの世界に入って戸惑いがあった」と、ギャップのなかで伸び悩んだ。

 殻を破るきっかけは、4年生になった1991年4月、200mで手動掲示20秒8(電動計時も含めた日本歴代6位)を出したことだった。そして、5月のスーパー陸上の400mでは世界陸上東京大会のB標準記録を突破する46秒53で日本人トップになる。そのあとはケガで6月の日本選手権は欠場したものの、8月の南部記念で日本人1位になり、世界選手権1600mリレーの代表に滑り込んだ。

「あの頃は『リレーで代表入り』という意識はあまりなかったですね。ただ、世界選手権東京大会に向けては、少しでも活躍できるようにと多人数で全日本の合宿をたくさん行なっていて、そのメンバーには入っていました。当時の400mは日本からは遠い世界で、87年の世界選手権も88年ソウル五輪も高野さんのみの出場。高野さんが44秒台に入っていても、次の集団のタイムは46秒台で高野さんが圧倒的でした。1600mリレーは4継(4×100mリレー)よりも、決勝進出の可能性は高いと思われていましたが、それは高野さんがいるから。高野さんに(世界大会へ)連れて行ってもらっているという感覚でした」

 それでも世界選手権には1600mリレーの予選第1組に4走として出場。3分01秒26のアジア新をマークした。だがそれでも達成感はなかった。強豪のアメリカ、ジャマイカ、ドイツと同じ組。400m決勝進出の2走の高野が順位を3位に上げて、その順位でバトンを受け、45秒3とまずまずのラップタイムで走ったが、ドイツに抜かれて4位に落ちたからだ。

 全体の記録では7位ながらも敗退する惜しい結果。それでも伊東は「悔しいというよりも、先に走った1走の小中富公一さんと高野さんは東海大の先輩だったから、申し訳ないという気持ちのほうが大きかった」と振り返る。

 その後、10月にはアジア選手権400mで3位になり、1600mリレーでは優勝。そして翌年は5月に自己タイ記録の46秒52など46秒5台を連発したが、1992年6月の日本選手権は5位。「今思えば、あとの2回の五輪に比べると、代表を勝ち取ろうという執着心はなかった」と振り返り、その理由をこう続ける。

「今考えると『すごくもったいない400mのレースばかりだったな』という気がします。中学から400mを始めたので、フレッシュさがなくなっていて。専門練習をしないで出ていた頃は楽しかったけど、この頃は嫌な種目になっていた。ただ、高野さんに国際大会に連れて行ってもらえる種目はそれしかなかったし、高校時代に記録を出した流れでやっていた感じでした。高野さんがいたから30歳近くまで陸上をやることができたけど、逆にあの人を見てなければもっと記録が出たかもしれない。とにかく高野さんは練習でも強いし、私生活もストイックで、それを目の前で見てしまったから、『あそこまでやらないといけないんだ』と、世界が遠く見えていました」

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