伊東浩司が突然のメンバー変更でリレーに出場→複雑な心境 アトランタ五輪でアジア新を出すも「外された人のことを考えていた」

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Koji Aoki/AFLO SPORT、Nakamura Hiroyuki

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 伊東浩司 編(後編)

前編では、走ることは叶わなかった5人目のリレーメンバーとしてバルセロナ大会を終えた伊東浩司氏に当時の心情や状況を思い出しながら振り返ってもらった。後編では、4年後に走ったアトランタ五輪と日本代表を背負う重み、それらの経験から起きた陸上人生の変化について語ってもらった。

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 伊東浩司が東海大に入った年の1988年ソウル五輪準決勝で44秒90の日本記録を出しながらも決勝進出を逃していた高野進(東海大)は、1989年と1990年はスピードをつけるために100mと200mをメインにした。

1996年のアトランタ五輪ではマイルリレーの5位入賞に貢献した伊東浩司氏 photo by Koji Aoki/AFLO SPORT1996年のアトランタ五輪ではマイルリレーの5位入賞に貢献した伊東浩司氏 photo by Koji Aoki/AFLO SPORT「僕が入学した頃、100mで10秒34の日本タイ記録を出した太田裕久さんもいましたが、スタートダッシュ練習で高野さんには勝てないのですごいなと思って。それを目の前で見て、最後は400mを頑張るために、自分もスピードをしっかりつけて同じように作り上げていこうと考えました。そういう取り組みのなか、当時の日本選手権では200mの出場者が少なくて、けっこう穴種目になっていたので、その種目を目指してみたらうまくいってしまったんです」

 1993年は400mをメインにしていたが、1994年9月に200mで日本歴代2位の20秒66を出すと、10月のアジア大会ではカタール勢の一角を崩して2位となり、4×100mリレーでは4走として中国を抜いて日本男子40年ぶりの優勝を果たした。そしてその1週間後の日本グランプリファイナルでは20秒44の日本記録を樹立と、「スピードをつける」という新たな取り組みの効果が出てきた。

 そして1995年には100mにも力を入れ始め、6月の日本選手権では予選で日本歴代3位の10秒21を出して決勝でも2位になったほか、10秒2台を連発。200mで準々決勝に進出した世界選手権では4×100mリレーでも2走を務め、38秒67の日本記録で5位と世界選手権初入賞の原動力になり、4継の中心メンバーになった。

 そして1996年の日本選手権では200mを20秒29(同年世界ランキング17位)の日本記録で走り、走れなかった4年前に誓った個人種目での五輪進出を決めた。さらに本番のアトランタ五輪では1次予選第10組1位、2次予選第3組2位と余裕を持って通過して準決勝に進出。その準決勝では第2組6位だったが、全体10位のタイムでの敗退という、次が見える走りを見せた。100m準決勝で4位に0秒05及ばず敗退した朝原宣治(当時・大阪ガス)とともに、日本男子短距離の新たな歴史を切り拓いたのだ。

「当時は個人種目も2次予選があり、リレーも準決勝があってスケジュールがギチギチで。朝原も夜中に100mの準決勝が終わったあとに、『明日は朝イチで走り幅跳びの予選だ』と言っていたのを覚えています。だからみんな個人でどう戦うかを考えていて、リレーはそれがぜんぶ終わったら揃ってやるというくらいでバトン練習もそんなにしていませんでした」

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