伊東浩司が突然のメンバー変更でリレーに出場→複雑な心境 アトランタ五輪でアジア新を出すも「外された人のことを考えていた」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Koji Aoki/AFLO SPORT、Nakamura Hiroyuki

【走れなかった人を思うと複雑だった】

 そんな状況で、200mを専門にする伊東はリレーに関して、いろいろな大会で便利使いされるようなことも多かったと苦笑する。

「93年の日本選手権は400m3位で、世界選手権はマイル(4×400)リレーメンバーで選ばれたけど、200mでB標準記録を破っていたので、本番では200mに出場させてもらいました。結局マイルリレーにはメンバー入りしなかったので、午前中は50km競歩の今村文男さん(富士通)を応援していたら、突然『夜の4継の準決勝はいくぞ』と言われて。そうしたら4継メンバーは怒っているし。

 それに1995年の世界選手権の時は、4継は準決勝敗退だろうという判断で、そのすぐあとのマイル(1600m)リレーを走るためにインタビュー取材はスルーしてこいと言われていて。でもその時は決勝にも残ったので僕は走らず、山崎一彦(同大会400mハードル7位)が走ったということもありました」

 そんな複雑な感情が顕著になったのが1996年アトランタ五輪だった。伊東と朝原の2本柱がいた4×100mリレーは決勝進出の期待もあったが、8月2日午前の1次予選で失格敗退。その直後にコーチから内々に『マイルの夜の準決勝から行くぞ』と言われた。

「結局、田端健児(当時・ミズノ)の代わりに走ったけど、自分が言われた1時間後に予選を走っていた彼はそれを知らない可能性もあったので、言われた時は頑張ろうというよりも外れる人がいるということしか頭になかったですね。400mの自己記録は田端のほうがよかったし、一緒に選考レースを走らなかった人間が本番で走るということに対しての、怒りのぶつけようもないですから。

 もし、4継で失格した時に『1時間後だけど予選から行け』と言われていたらもっと頑張れたと思いますね。実際にバトンをもらったら走るしかないけれど、準決勝の4走でゴールして『決勝に残れた』と思っても、やっぱり田端のことを考えてしまったし。決勝の前のウォーミングアップでも、彼のことを思ってしまって集中できなかったですね。特に彼は、僕らみたいに五輪に出場する選手が比較的多くいる神戸市と違い、長崎県の五島列島出身でその地域も盛り上がっていただろうし、とか......。彼も予選を1本走っているといえど、そういう思いにしかならなかったですね」

 現在は、甲南大で青山華依など短距離を指導している(撮影は2022年の日本選手権後にて) 現在は、甲南大で青山華依など短距離を指導している(撮影は2022年の日本選手権後にて) それでも結果、準決勝、決勝ともに44秒台のラップタイムで走り、同種目64年ぶりの決勝進出と、3分00秒76のアジア新での史上最高の5位入賞を果たす原動力になった。だが伊東は、「4年前に逃していた思いを遂げた」という気持ちにも、歴史を切り拓いたという達成感もなかったと振り返る。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る