「怒られるのを覚悟で大八木(弘明)監督の部屋を訪ねました...」 駒澤大・藤田敦史新監督が見た28年間での名将の変化とカリスマ性
駒澤大学陸上競技部
藤田敦史・新監督インタビュー 中編(全3回)
今年4月から駒澤大陸上競技部の監督に就任したのが、OBの藤田敦史氏だ。藤田氏は1995年に入学。同じ年にコーチに就任したのが、前監督の大八木弘明氏だった。
当時低迷していた駒澤大は、大八木氏の熱血指導によって大学長距離界屈指の強豪校へと変貌を遂げた。大八木氏は、2002年から助監督、2004年から監督としてチームの指揮をとり、駒澤大は「平成の常勝軍団」の異名をとった。
藤田氏もまた、大八木氏の指導で力をつけ、大学4年時には箱根4区の区間新記録を樹立。大学卒業後にはマラソンで当時の日本記録を打ち立て、世界選手権に2度出場するなど、現役時代は日本を代表する長距離ランナーとして活躍した。
そして現役引退後は、富士通コーチを経て、2015年から8年にわたって駒澤大のヘッドコーチとして後進の指導に当たり、監督の大八木氏をサポートした。
選手、コーチと、さまざまな立場から藤田氏が見た大八木氏のカリスマ性について語ってもらった。
当時、駒澤大2年の藤田敦史氏(左、現・監督)とコーチだった大八木弘明氏(右、現・総監督)。元監督の森本葵氏(中央)とともに箱根駅伝にて 写真提供/藤田敦史この記事に関連する写真を見る
●かつて"絶対"だった名将・大八木弘明の変化
ーー藤田監督が学生だった頃、コーチとして戻ってきた頃、そして現在では、大八木氏の学生との接し方がだいぶ変わったと聞きます。実際に、藤田監督の目から見て、どんなところが変わったのでしょうか?
藤田敦史(以下、同) 私たちが学生の頃は、ある意味、大八木は"絶対"でした。その頃はチームが弱かったのもあって、大八木は無我夢中でチームを強くしようと指導に当たってくれていました。自分で走って練習を引っ張ったりもしていましたから。
これだけ熱意を持って指導してくれる人が言うことなら、間違いはないだろうと、我々としても、やるしかないと腹をくくって、大八木が出したメニューをこなしていました。
私がコーチとして戻ってきた時は、学生の頃と比べたら少し丸くなったかなと思うところもありましたが、大八木らしさというか厳しさは、以前とそんなに変わったという気はしませんでした。
ただ、箱根駅伝の優勝から遠ざかった時に、おそらく大八木自身がいろんなことを考えたんだと思うんです。それで、目線を下げて、子どもたちと一緒に冗談を言い合ったりするようになりました。私が受けてきた指導と、今の大八木の指導とは全然違うものですが、大八木の近くで、そのどちらも経験できたことは非常に勉強になりました。
ーー今の駒澤大の強さは、平成の常勝軍団と言われていた頃とは、また違うものだと言っていいのでしょうか?
そうですね。平成の常勝軍団の頃は、みんな疑いもせず、大八木が言ったことを忠実にやっていた。あれほどのカリスマ的な指導者なので、心理的にもこの人の練習をやっていれば強くなれると思い込むことができました。
でも、今の時代に同じことをやろうと思っても、なかなか難しい。これだけ情報に溢れていて、スマホを開けば、他の大学がどういう練習をしてどんな結果を出したのかがわかるんですよね。だから、自分がやっている練習でなかなか結果が出ないと、この練習で本当にいいのかと半信半疑になり、余計に練習が身につかなくなっていました。
以前は練習メニューがひとつだけだったり、何パターンかあっても大八木が決めることが多かったのですが、今は子どもたち自身が選んでいます。そうすると、自分が選んだ以上はしっかりやらないといけないっていう責任が彼らのなかに生まれるわけですよ。つまりは、受動的な心理状態から、主体的に物事を考えられるようになった。それが再び結果が出るようになった要因なんじゃないかなと思います。
大八木は、そういったことも考えて、練習を提示するようになったんだと思います。
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著者プロフィール
和田悟志 (わだ・さとし)
1980年生まれ、福島県出身。大学在学中から箱根駅伝のテレビ中継に選手情報というポジションで携わる。その後、出版社勤務を経てフリーランスに。陸上競技やDoスポーツとしてのランニングを中心に取材・執筆をしている。