「なぜ義務感に追われながら走っているのか」マラソン秋山清仁は動画から刺激 MGCは「テレビに長く映ってアピールしたい」
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第14回・秋山清仁(日体大―愛知製鋼)後編
前編を読む>>箱根駅伝6区を坊主頭で爆走→ 一躍、時の人に 日体大・秋山清仁はなぜ「下りのスペシャリスト」になれたのか2022年12月、福岡国際マラソン。日本人トップでゴールする秋山清仁(愛知製鋼)この記事に関連する写真を見る
日体大時代、2年時から3年連続で箱根6区を走り、2度区間賞を獲り、6区のスペシャリストと称された秋山清仁。「自分の価値は下りだけ。実業団では下りがなくなり、どうしたらいいんだろう」と悩むこともあったが、実業団への道が開けたのも6区があったからだった。
「最初は、下りだけの選手だったので、どこからも声がかからなかったんです。でも、大学3年の箱根で区間新を出した直後に旭化成の川嶋伸次さんが連絡をくださって。川島さんは日体大で6区を走り、シドニー五輪でマラソンの日本代表にもなられた方で、6区を走った僕に声をかけてくださったんです。でも、旭化成はスター選手の集まり。下りだけの自分が、実業団チームのなかで駅伝メンバーに入るということに自信がありませんでした。やはり駅伝を走りたかったので、すぐには決めきれず、最終的に4年の夏に声をかけていただいた愛知製鋼に行くことに決めました」
秋山の最大のモチベーションは、駅伝だった。
実業団はニューイヤー駅伝があるものの基本的には個人種目に重きを置く選手が多い。駅伝にこだわるのは、どんな理由があるのだろうか。
「高校時代に駅伝を走れなかった経験が大きいですね」
秋山が通学していた東京・順天高校は、女子が強く、男子は駅伝のレースを組む人数が足りない状況だった。他部から選手を借りてメンバーを組むことは可能だったが、女子が本気で都大路を目指すレベルだったので、そのような中途半端な編成で出場する考えは当時の監督にはなかったのだ。小学校の時から箱根駅伝に憧れていた秋山は、駅伝を走れない悔しさを抱え、都大路の予選で女子のために沿道でタイムを計測して3年間を過ごした。
「高校時代は、ただ駅伝を走りたい。駅伝を走っている姿を家族や友人に見てもらいたい。そういう気持ちがすごく強くかったです。それは大学でも社会人になっても変わらない。個人種目も大事ですが、僕は駅伝で結果を出すことをメインに考えていました」
秋山には、箱根で強烈な印象として心に残っているシーズンがある。2008年大会、順天堂大の小野裕幸が5区をフラフラになりながらも何度も立ち上がり、襷をつなごうとした。最終的に棄権になるのだが、その必死な姿に秋山は胸を打たれた。
「見ていてつらくなるような苦しいシーンだったんですけど、すごく惹きつけられたんです。なぜ、このシーンなのかわからないですけど、自分のなかに刺さるものがあったんでしょうね」
それから秋山は一層箱根にのめり込んでいった。マラソンを走るきっかけも駅伝が影響している。
「僕は、5000mや1万よりもハーフとか30キロのほうが苦手意識がなかったので、いずれはマラソンを走ろうと思っていました。3年ほど実業団で走り続け、時期的にそろそろマラソンかなという流れで挑戦するようになったんですが、マラソンが駅伝で結果を出すことにつながればいいなという感覚でいました」
2019年には熊日30キロで1時間30分24秒で6位入賞を果たし、監督からはロードの適性があると言われた。高校の時、監督に下りの適性があると言われてその気になったように、秋山はマラソンにシフトしていった。
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著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。