箱根駅伝で青山学院大の台頭に「あそこまで一気に強くなるとは予想できなかった」。元駒澤大・大塚祥平が学生時代を振り返る (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

 その時、駒澤大の前に大きく立ちはだかったのが青学大だった。1年前、2015年の第91回箱根駅伝で初優勝を果たし、勢いがあった。

「青山学院は、自分のひとつ上の代にすごく強い選手が入っていたので、自分たちが3、4年になる時は、ライバルになるなって思っていたんです。でも、2年の時に優勝して、あそこまで一気に強くなるとは正直、予想できなかったですね。それまで自分たちは毎年、箱根で優勝をすることを目指し、ライバルとして東洋大を意識していたんですけど、3年になると青山学院を倒すためにどうすべきかというのを考えるようになりました」

 3年の時は5区4位、チームは打倒青学大を達成できず、総合3位に終わった。最終学年の4年時は、5区区間賞を獲った。ただ、この時は、駅伝全体では苦しい戦いをしいられ、総合9位でシード権の確保にとどまった。4年間で4度、箱根を駆けた大塚にとって一番印象深いのは、どの大会だったのだろうか。

「1年目の8区は初めて走ったので強く印象に残っていますが、やっぱり区間賞を獲れた4年の箱根ですね。この時は正直、あんまり調子がよくなくて、しかも区間賞はギリギリだったんです。下り終わったところで、(1位と)1秒差というのを聞いたので、それからなんとか逆転することができて......。初めて区間賞を獲れたので、うれしかったですね」

 箱根を走った経験は、大塚のその後の陸上人生にどのような影響を与えたのだろうか。

「箱根を走るために、年間通して距離走をするなど、とにかく練習量が多かったです。でも、そのおかげで実業団に入ってマラソンをすることになっても抵抗なく練習に臨めているので、箱根につながるための豊富な練習量が自分にとっては大きな財産になりました」

 大塚は、マラソンを走るためのベースを駒澤大で築いた。同時に、マラソンで生きていくという決心をつけさせてくれたことが非常に大きかったという。

「駒澤大は、周囲のレベルがすごく高いので、みんなに負けないように意識して練習してきたことで実力がつきました。その上で将来、何をすべきかと考えた時、大八木監督に『おまえはマラソンだ』って言われたのがすごく大きかったです。もともとマラソンというか、ロードは高校の時から好きだったんです。陸上を始めたきっかけも駅伝のおもしろさを感じたからで、長い距離が得意だなというのも感じていました。だから、大八木監督に言われたのは本当にうれしかったです。強い選手をこれまで育ててこられた監督にそう言われたので自信になりました」

 大塚は、大学4年の3月にマラソンデビューをしているが、もともとは3年の時に出場する予定だったという。そのために2年の終わりに出場した熊日30キロロードレースを終えてから「マラソンをやるぞ」と言われ、距離走などを増やして準備した。3年の箱根が終わったあとからは本格的に40キロを走るようになり、4年の時は45キロ走にもトライして、マラソンに向けて体をつくっていった。そうして、卒業前の3月にびわ湖毎日マラソンに挑戦した。

「箱根が終わってほとんど休まずにマラソンの練習に入ったんですけど、調子は悪くなくて2時間10分そこそこぐらいには行けるだろうって思っていたんです。でも、いざ走ってみると後半、足がまったく動かなくなってしまい、2時間15分10秒もかかってしまいました。その時、これがマラソンか、甘くないな。2時間10分をきるのはすごく難しいんだなということを実感しました」

 大学生ながら16位と健闘したが、レース後、大八木監督からは「スタミナがまだまだだな」と言われた。マラソンの厳しさを知る一方で、ここで勝負していきたいと強く思った。特に意識したのが、中村匠吾だった。大八木監督とともに練習する姿を間近で見てきたので、中村の強さは十分に理解していたが、いつかは超えていかないといけないと思った。

 その思いをもって、大塚は実業団へと歩を進めていった。

後編へ続く>>「補欠はもういい」。MGCでは「30キロ以降、どれだけペースを上げていけるか」

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