「山の神になりたくて毎日練習していた」神野大地が明かす箱根駅伝秘話。きっかけは原晋監督からの「お前、すごいぞ」

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第5回・神野大地(青山学院大―コニカミノルタ―プロランナー)前編

「3代目山の神」誕生の瞬間。2015年箱根駅伝での神野大地の走り「3代目山の神」誕生の瞬間。2015年箱根駅伝での神野大地の走りこの記事に関連する写真を見る

 青学大時代、神野大地は「3代目山の神」となり、初優勝に貢献。選手として成長し、充実した4年間を過ごした。実業団に入りマラソンを始め、プロになってからは苦しい時間を過ごしたが、昨年12月の防府読売マラソンで2位になったのをキッカケに、長いトンネルを脱した。

「山の神」で終わるわけにはいかない。

 箱根で育った神野だが、その強い思いがMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)、そしてパリ五輪へと自身を駆り立てている。

「駒澤大に行きたかったんです」

 神野といえば明るく、いかにも青学大卒らしい選手だが、高1時は駒澤大が憧れだった。

「高校に入った時は女子よりも遅くて、5000 mは15分26秒でした。当時、14分台が県ではトップレベルなんですけど、高1の終わりに14分49秒で県4位になって、関東の大学に行くのが目標になりました。その時、宇賀地(強・現コニカミノルタコーチ)さんに憧れていたので、駒澤大に行って大八木監督の指導を受けたいと思ったんです」

 駒澤大に進学した場合、また違う陸上人生があったかもしれないが、運命的ともいえる原晋監督との出会いは高2の夏の菅平合宿だった。青学大も合宿をしており、クロカンコースを走っていた時、原監督の目に留まり、わざわざ宿舎まで会いに来てくれた。青学大の当時の推薦枠の設定タイムは5000m14分40秒以内で、神野は14分49秒だった。それでも原監督から、「今の君の走りなら夏を越えたら40秒をきれる。青学に入って一緒にやろう」と言われた。

 秋の記録会で14分26秒までタイムを伸ばすと他大学からも声がかかるようになった。一時は悩んだが、原監督は何の実績もない自分に最初に声をかけてくれており、シード権をとれるかどうかのレベルにあった青学大ならば4年間で1度は箱根駅伝を走れるかもしれない。そう考え、最終的に青学大への進学を決めた。

 大学1年の時は、久保田和真、小椋裕介(現ヤクルト)ら同期の速い選手に触発され、がむしゃらに走った。徐々に走力がつき、高島平の20キロレースでは60分23秒で走り、チームで7番目の成績を残した。主力選手が3、4人出ていなかったが、1年目にして箱根駅伝のメンバー入りが見えてきた。その直後、シンスプリントの疲労骨折が判明し、16名のメンバー入りから漏れた。

「同期の強いメンバーが箱根を走ったんですが、そこで自分の力のなさを感じましたし、ここで部内の選考を勝ち抜いて箱根を走るというのはすごく大変なことだなと改めて思いました」

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