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なぜ日本中が「びわ湖毎日マラソン」に注目? 1988年、瀬古利彦の苦悩 (3ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Shinichi Yamada/AFLO

 ラスト2.195kmは7分56秒と、これまでの瀬古では考えられない遅いタイム。2位に2分51秒差をつける圧勝だったが、すべての人を納得させられる結果とは言えなかった。

「瀬古は強いんだ、ソウル五輪に必要なんだということを見せたかった。昨日までは2時間8分台を出そうと考えていたが、今日は暑かったので2時間10分台に切り替えた」

 レース後にこう話した瀬古は、びわ湖に向けて日本最高記録(2時間07分35秒)も視野に入れる練習をしてきていたが、準備期間が短い中でのギリギリの仕上げだったため、気温が一気に上がった悪条件では力を発揮できなかった。さらに、持ちタイム2番手の選手が2時間11分10秒で、「10分切りのためには早くから独走しなければいけない」という気負いも後半の失速につながった。

 結局、優勝したとはいえ、福岡で日本人3位の工藤や、2月14日の東京国際マラソン日本人トップの仙内勇(当時・ダイエー)の2時間10分59秒にも劣る結果になった。

 所属チームの合宿所でレースをテレビ観戦した工藤は、この結果を受けて「過去の実績ではなく、現在の力を判断してほしい」と話したという。しかし、3日後の16日の強化委員会は瀬古の実績を評価して代表に内定。19日の理事会で正式決定した。瀬古にとっては11月15日に負傷してからの、苦悩の126日間だった。

 12月の福岡をきっかけに数々の議論が生まれ、日本中の関心が最も高かったびわ湖マラソンだった。

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