なぜ日本中が「びわ湖毎日マラソン」に注目? 1988年、瀬古利彦の苦悩 (2ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by Shinichi Yamada/AFLO

 前年のアジア大会を2時間08分21秒で圧勝していた中山竹通(たけゆき/当時・ダイエー)の、「瀬古さんは這ってでも出てくるべきだ」という発言も大きく取り上げられた。

 その福岡国際マラソンは、気温7.5度でみぞれ混じりの強い雨が降る中でスタート。中山は怒りを力に変えて爆走した。15kmまでの各5kmを14分30秒台で突っ走り、早々と独走態勢に入った。当時の世界最高記録(2時間07分12秒)を大きく上回るペースだった。中間点通過は1時間01分55秒で、2020年の東京で大迫傑が2時間05分29秒を出した時の通過を5秒上回っていた。これは、現在の世界トップレベルでも通用する走りだ。

 中山は、終盤こそ冷たい雨の影響で失速したが2時間08分18秒で見事優勝。2位は2時間10分34秒の新宅雅也(当時・ヱスビー食品)、日本人3番手は2時間11分36秒の工藤一良(当時・日産自動車)という結果だった。

 レース後、強化委員会は直前に決めたとおりに、優勝した中山と2位の新宅の2名を、ソウル五輪代表として日本陸連理事会への推薦を決めた。

 そうした状況で迎えた1988年3月13日、びわ湖毎日マラソンが開催され、マスコミはレース前から瀬古を追いかけていた。

 スタート時の気温は、前日までの涼しさから一転する16.5度。強力なライバルがいない中で瀬古は、5kmを15分前後のペースで走り、12kmからは独走状態。中間点は1時間03分45秒と、代表確定の重要条件である2時間10分切りも可能に思えた。

 だが後半になると18度まで上がった気温と日差しに苦しめられた。30kmまでは何とか15分台のペースを維持したが、35kmまでが16分00秒になると40kmまでの5kmは一気に17分01秒まで落ち、2時間12分41秒でゴール。

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