【月報・青学陸上部】3連覇ならず。出雲の敗北で何が起きていたのか (3ページ目)

  • 佐藤 俊●文 text by Sato Shun  photo by Kyodo News

「途中から気分が悪くなって、襷(たすき)を渡す時はもうフラフラでした」

 襷を渡す寸前は意識が朦朧(もうろう)とし、一度足が止まった。すぐに覚醒し、そのまま田村に丸めた襷を渡した。

 トップの東海大とのタイム差は38秒。「100m以内で15秒以内」という原監督の計算が大きく外れ、序盤から厳しいレース展開になった。

 2区の田村には悪条件が2つ重なっていた。

 ひとつは38秒ものタイム差、もうひとつは猛烈な暑さである。田村は暑さに弱い。昨年の夏合宿では暑さのために倒れ、年明けの箱根駅伝の7区でも、暑さと内臓疲労のために脱水症状に陥り、フラフラになりながら下田に襷を渡した。

 田村は、その時の自分の姿を梶谷にダブらせていた。

「梶谷が僕の箱根みたいに脱水症状になり、襷を渡す時はもう上の空になっていたんです。そういうギリギリの走りを見て、箱根の時は後続の下田(裕太)たちが走ってくれて......。僕も梶谷の走りをしっかりゼロに戻す、立て直すという気持ちで走りました」

 田村の走りは鬼気迫るものがあった。

 こんなところで負けるわけにはいかない。絶対に自分が遅れを取り戻す。そういう執念を感じさせる、暑さなどまったく関係ないような圧巻の走りを見せたのだ。3km地点では38秒差あったタイム差が28秒になっていた。

 そして、中継地点で襷を渡した時、タイム差は18秒になっていた。田村が挽回したことで、3区の下田でトップに立ってリードする展開に持ち込めたのだ。

 その3区は下田にとって因縁の区間だ。

 昨年は東海大のルーキーだった關颯人(せき・はやと)と競り合い、最後に抜かれてしまった。その結果を引きずったのか、次の全日本でも思うような走りができなかった。期待されていた結果を出せず、4年生におんぶに抱っこ状態な自分に責任を感じていた。

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