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明治45年、日本初の五輪マラソン選手は
「足袋」を履いて走った (3ページ目)

  • 石井孝●文 text by Takashi Ishii

 翌日、宿舎の部屋で前日の苦い記憶を思い返し、金栗は日誌に次のような激烈な文章で自らの敗北を綴った。

「大敗後の朝を迎ふ。終生の遺憾のことで心うづく。余の一生の最も重大なる記念すべき日なりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まる日を待つのみ。人笑はば笑へ。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重任を全うすることあたはざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげむ」

 このとき金栗は世界との歴然とした差を痛感した。将来、日本が世界と伍して戦うにはスタミナとスピードを兼ね備えたランナーの育成が課題だ。

 そしてもうひとつ、「世界の舞台でも通用するマラソン足袋が必要だ」とも。帰国後、金栗は4年後のオリンピックを見据えて、辛作とともに足袋のさらなる改良にとりかかった。

■1200kmを走破したハリマヤのマラソン足袋■

 そのときまでの足袋は踝(くるぶし)の上まで包みこんでいたが、足首を動きやすくするために作りを浅くした。試作品を履いて金栗が走るのを、辛作が自転車で伴走して意見を聞き、何度も作り直した。

 ふたりは布底にも限界を感じていた。欧米の石畳の舗道は硬く、布底ではレース中に膝を痛めてしまう。辛作は大阪へ行って板ゴムを仕入れ、それを足袋の底型に合わせて切り抜き、縫い付けた。路面からの衝撃はやわらいだが、底が平面なので今度は雨の日にツルツルと滑った。ならばと、金栗がナイフでゴム底に凹凸をつけてみると、これがいい塩梅(あんばい)だった。辛作はまたゴム工場を駆け回って、凹凸のついたゴム型を作ってもらうのだった。

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