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明治45年、日本初の五輪マラソン選手は
「足袋」を履いて走った (4ページ目)

  • 石井孝●文 text by Takashi Ishii

 こうして選手と職人が心をひとつにして、マラソン足袋に次々と改良を加えていった。

 1919年(大正8年)7月、金栗は下関〜東京間1200kmを20日間で走り抜く長距離走破を計画し、この改良したマラソン足袋で臨むことにした。新聞社が後援となり、長距離走破の様子が連日報道されたことから、沿道には大勢の見物客が群がった。当時、国民的英雄だった金栗が我が町を通過するとあって、人々はノボリを立てて応援したり、学生たちが一緒に走ったりと、日本でのマラソンの普及に大きく貢献したイベントとなった。

 ゴールの皇居前広場に到着した金栗は、辛作を見つけてこう伝えた。

「20日間を走り通すのに、この一足だけで十分だった」

 偉業を成し遂げた金栗が大勢の群衆から祝福を受けているとき、辛作は脱ぎ捨てられたそのマラソン足袋を手にとり、ひとり静かに涙したという。

 さらに辛作は、足袋のコハゼをやめる決心をする。コハゼとは踵(かかと)を締めつける留め具で、足袋を足にフィットさせる重要な機能だ。これを現代のシューズのように足の甲をヒモで縛る形に変える大きな決断だった。

「決して職人気質を出すな。名人になってもいけない」

 辛作がふだんから自分に言い聞かせている言葉だ。マラソンランナーのため、いや金栗のためであれば、辛作は足袋職人の矜持(きょうじ)も捨てる覚悟だった。

 そして辛作は、凹凸のゴム底と、足の甲をヒモで縛るこのマラソン足袋を「金栗足袋」と命名して登録商標をとり、一般にも売り出すと、これが飛ぶように売れた。商売を度外視して金栗のために費やした辛作の努力が、期せずして報われたことになる。

 戦後しばらくたっても、運動会に行けば必ず見かけたほどのロングセラーとなった「金栗足袋」。驚くべきことに、このマラソン足袋はストックホルム以降のオリンピックの舞台でも、とてつもない成果を挙げていく......。

(つづく)

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