【月報・青学陸上部】強い駅伝チームには敏腕マネージャーがいる (2ページ目)
「僕がマネ-ジャ-になったのは、3年の8月です。2年の終わりまでに部内基準を突破しないといけないんですけど超えられなくて......。3年の前期までチャンスをもらったんですがダメでした。そこまで選手としてしっかりやれたと思いますが、やはり悔いは残りますし、走りたい気持ちもありました。でも、その時の自分の実力を考えると、選手としてよりもマネ-ジャ-になってチ-ムを支えた方が貢献できると思ったんです。それで3年の夏合宿からマネ-ジャ-になりました」
3年生の途中からマネ-ジャ-に転向したが、最初は仕事をどう処理していいのか戸惑い、原晋監督によく怒られたという。
「最初は勝手がよく分からなくて、例えば、ひとつの案件を確認しようと監督のところに行くんですが、すぐにあれもこれもっていう感じで何度も監督のところに行き来したんです。そうしたら『おまえは考えがまとまっていない。まとめてからこい』ってよく怒られました(苦笑)」
マネ-ジャ-の仕事は多い。日常の練習では1ヵ月の練習メニュ-が出ており、それをその日その日に確認し、練習前に選手に伝える。また、陸上部の広報として選手への取材を調整したり、選手の大会エントリ-を分担して進め、関東学連や大会事務局と連絡を取って打ち合せをする。大会のときは事前に行動予定表を作り、現地に入ると、それをベ-スに動いていく。5月の関東インカレでは毎日朝7時半スタジアム集合で対応していた。この日の大会も行動予定表を手にテキパキと動き、レ-ス前は選手招集所に急遽欠場した田村和希らの不出場届けを出しに行き、レ-ス中はスタンドから大きな声で選手にタイムを知らせていた。
「最初はいろんなことに慣れなくて大変でしたね。特に一緒にトレ-ニングをさせていただいているトレ-ナ-の中野(ジェ-ムス修一)先生がすごく忙しくて、そのサポ-トとか、打ち合せが結構多いんです。そういう調整とかやったことがなかったので、大変でした。今はもう大丈夫です。日常の練習や打ち合せもそれほど問題なくできているし、選手が練習に打ち込める環境作りはできていると思います」
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