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スノーボード小栗大地の挑戦と成長。スタンス変更は「野球の右打者が左打者になるような感じ」 (3ページ目)

  • 荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu
  • photo by Paraspo/Kazuyuki Ogawa

【刺激を受ける存在】

 幼少期から家族とスキーを楽しみ、スノーボードを始めたのは小学5年の時。最初は転んでばかりで大変だったが、滑れるようになると楽しくなり、スノーボードブームも相まって中学3年になると友人たちとバスツアーで出かけた。大学生になって車の免許を取得すると自分で運転して雪山へ出かけるように。当時、大学では音楽バンドのサークルに入ってギターを弾いていたが「一番になりたいけど、音楽の才能はないな」と達観したところから、スノーボードを競技として取り組むことを意識し始めたという。

 大学2年から夏休みにニュージーランドでのキャンプに参加するようになり、大学卒業後は、冬はスキー場で、夏はニュージーランドで滑る生活を送り、25歳でプロ選手になった。就職もして競技との両立を図っていた2013年、仕事中に重さ2トンの鉄板の束が足の上に落下し、右足をひざ上から切断した。

 救急車の到着を待つ間、考えていたのは競技のこと。

「義足でスノーボードできるかな」

 実際に小栗は事故の約4カ月後に義足でスノーボードを再開している。すぐに雪上に復帰できたのは、ある選手の存在が大きく影響している。今大会、アルペンスキー競技に日本代表として出場している隻脚スキーヤー・三澤拓(SMBC日興証券)だ。小栗がニュージーランドで泊まっていたバックパッカーの宿に、高校生だった三澤が知り合いを尋ねて遊びに来ていた時に知り合った。当時、ゲレンデで三澤が片足一本で滑る姿を見ていたのもあるが、「一番は拓が義足で日常生活を送る姿を知っていたから、義足に対する不安がなかったんです」と明かす。

 三澤は北京大会で5度目のパラリンピック。普段から連絡を取りあっているわけではないが、遠征先でバッタリ会うこともあり、話せば刺激を受ける存在だ。

 今大会は同じ雪上競技でも会場が違うため、選手村も別々。出発前の日本代表選手団の結団式もオンラインでの参加だったため、まだ会えていない。開会式の日に現地から三澤が投稿したSNSに「全部出し切って閉会式で会おう!」とコメントを入れたがまだ返事はなく、「もしかしたら帰国してから成田で会うかもしれないね」と笑う。

 スノーボード日本代表チームのキャプテンとして仲間を率い、ともに成長し、他競技のアスリートに刺激を受け、家族や所属先などたくさんの人の応援とサポートを受けてここまで歩んできた。ひとつの形として実現したいのは、やはりパラリンピックのメダルだ。北京での収穫と課題を成長につなげていくことを誓った小栗。不屈の闘志で、4年後のミラノ・コルティナダンペッツォ大会に向けて、リスタートを切る。

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