2020東京パラにつなぐ。50年前に日本人が受けた衝撃 (2ページ目)
伊藤 そこからやっとスポーツに。
中村 はい。次はスポーツだということで、日本のサポートでラオスの首都に体育館を作り、今は車いすバスケのチームを作っているところです。まだ、1964年東京パラリンピック当時の日本のように、パラスポーツがないに等しい国がアジアとかアフリカにはたくさんあるでしょうから、そういうところから、日本に選手として来てもらえるようになったらいいなと思っています。
伊藤 まずは車いすバスケから始められたんですね。
中村 その話の流れで言えば、バスケにbjリーグってありますよね。大分にも『大分ヒートデビルズ』というチームがあって、去年から大分ヒートデビルズのホームゲームの前に、車いすバスケの試合を必ず行なうようにしてもらったんです。レフリーも付けてちゃんとした試合をしました。最終的にはリーグ戦まで行きたいと思っています。今はまだ始まったばかりですけど、年間十数試合はしているんです。そうすると、車いすバスケを今まで見たことのない人が、ヒートデビルズの試合を見に行ったついでに見るようになって、最近では車いすバスケのほうもお客さんが増えてきているんですよ。地元のマスコミも、福祉という扱いじゃなくて、大分ヒートデビルズの勝敗結果の下に車いすバスケのチーム名も一緒に掲載しています。ひとつのスポーツとして、結構負け方がひどい時は批判するとかそういう扱いです。
伊藤 素晴らしいですね。ちゃんとひとつの競技として扱っていて。
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