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スキージャンプ・高梨沙羅が振り返るミラノ・コルティナ五輪の銅メダル「ここで失敗したら、私は終わりだなと思っていました」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Toshimi Oriyama

【チームで勝ち取った銅メダル】

――やはり4年前の北京五輪のチーム戦1本目失格(スーツの規定違反)は、心に引っかかっていましたか?

「そうですね。そこはずっと考えながらやってきましたが、やはり苦手意識があった種目でもあります。だから、今回も最初に混合団体の選手に選ばれた時は即答できなくて、『もう1日練習があるので、そこで見て判断してください』とコーチに相談させてもらいました。そのあとに『やっぱり沙羅、お願い』と言われて腹をくくり、全力で臨みました。覚悟を決めるというか、振りきったような感じでしたね。『ここで失敗したら、私は終わりだな』と思っていましたが、チームのみんなに支えてもらい、混合団体では風も味方してくれて2本そろえることができました」

――混合団体の時は、小林陵侑(チームRYO)選手や二階堂蓮選手(日本ビール)が緊張している高梨選手に声をかけるなど、いろいろ気を使ってくれたと話していましたね。

「そうなんです。だから自分の能力以上のものを出せた2本だったと思います。『あの4人、あのチームじゃないと獲ることができなかったメダルだな』と思っています。

 それに、チームについてくれていたジャンプスーツの技術者の方が、4年前の北京五輪と変わらず同じ方だったんです。その方が私のジャンプが終わった時に、『沙羅、よくやったね』と声をかけてくれました。

 あとでリザルト見ながら、『今日は女子のなかで2本の合計得点が3番目だから、(個人としても)今日は銅メダルだ』と言ってくれた言葉がすごく心に残っていて、彼も(あの失格から)4年間ずっと一緒に戦ってくれていたんだなっていう気持ちにもなりましたし、本当にチームで獲れた銅メダルなんだと思いました。

 銅メダルでも私自身、北京五輪から抱えていた心の重みを拭えましたし、本当にたくさんの人の気持ちをすっきりさせられたというか、報われたと思えました」

後編はこちら>>模索してきた自身とスキージャンプ界の未来

Profile
高梨沙羅(たかなし・さら)
1996年10月8日生まれ。北海道上川郡上川町出身。
中学生のころから世界の舞台で活躍し始めると、女子のW杯が始まった2011-2012シーズンから参戦し、蔵王大会では16歳で初優勝を果たした。W杯の優勝回数は史上最多の63回。世界選手権でも数多くのメダルを獲得。オリンピックには4大会出場し、2018年平昌五輪のノーマルヒル個人で銅メダル、2026年ミラノ・コルティナ五輪の混合団体で銅メダルを獲得している。成績以外でも日本人女子選手の中心に立ち、女子スキージャンプ界を牽引し続けている。

著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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