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【ミラノ五輪】高梨沙羅「ひとつピリオドを打てた」重圧から解放されて心が軽くなった仲間からの言葉があった

  • 折山淑美●取材・文 text by Toshimi Oriyama

「このチームだからできたことだと思うし、彼女や彼らがいてくれたからこそ、幸せな日にできました。自分のなかでひとつピリオドを打てたかなと思います」

 こう話す高梨沙羅(クラレ)は、4年前の北京五輪ノーマルヒル混合団体で味わった悔しさ、悲しさを、このミラノ・コルティナ五輪で乗り越え、うれし涙に変えた。
最高の笑顔で団体戦を終えた高梨沙羅(中央右)photo by Tsutomu Kishimoto/JMPA最高の笑顔で団体戦を終えた高梨沙羅(中央右)photo by Tsutomu Kishimoto/JMPA

【不安を乗り越え団体戦の舞台へ】

 2022年2月7日、試合後に高梨が泣き崩れる姿がテレビに映し出されていた。スーツの違反で失格となり、4位という結果に終わったためだった。

 スーツの違反による失格は、W杯でも連戦のなかで体型の変化に対応できず、時々起こることだ。しかし、この時は高梨以外にも、1本目にドイツとオーストリアの女子選手が失格となり、2本目もノルウェーの女子が2名失格と、強豪国が狙い撃ちされているような不可解な状況もあった。それでも高梨は、周囲が心配するほどその出来事を重く受け止めていた。

 そして今回、2026年2月10日のミラノ・コルティナ五輪ジャンプ混合団体に、女子のエース級として3番手で出場。2日前の個人戦では13位に終わっていたが、この日は安定したジャンプを2本そろえて銅メダル獲得に貢献した。

「メンバーに選んでいただいた時から今日の飛ぶ瞬間まで、不安要素のほうが多く緊張していました。でも、五輪に来てから一番いいジャンプを2本揃えられたので、飛び終わった時はうれしいというより安堵の気持ちのほうが強かったです」

 実際、団体戦の前日の公式練習前に起用を知らされた時に、「本当に自分でいいのですか。練習を見てからでも遅くないので、それから決めてください」とコーチに相談をしていたという。それでも覚悟を決めて再び団体戦の舞台に戻ってきた。

「4年前は、(4年後に)この場に立てるとは想像できていませんでした。それでも北京五輪で一緒に飛んでくれた伊藤有希さん(土屋ホーム)や佐藤幸椰さん(雪印メグミルク)は、その後も一緒に飛んでくれました。先輩の存在がすごく支えになっていたし、(小林)陵侑(チームRYO)も変わらず接してくれていました。

 そういうチームや応援してくださる方々の支えで戻って来られたから、この役割を任せていただいた限りはもうやるしかないと思いました。自分の4年間やその以前から積み上げてきたものをここで出せないなら、私の競技人生は終わりだなと思って臨みました。結果、2本飛んで、チームにとって圧倒的な力になれるようなジャンプではなかったですが、五輪の個人戦や練習よりもいいジャンプが飛べたと思います」

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著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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