競輪・吉田拓矢が自分の優勝よりうれしかったレース、失格で落ち込んだ夜に励まされた過去を明かす (3ページ目)
【屈辱を味わった高校時代】
高校で自転車競技部に入ると、すぐにその魅力に取りつかれた。
「水泳はずっと水のなかで景色が変わらないんですが、その点、(景色が変わる)自転車は楽しかったですね。ゼロからのスタートだったので、どんどんタイムが伸びていくのも楽しかったです。僕にとっては水泳のようなタイムレースよりも、自転車みたいな駆け引きがあってコンタクトもあるスポーツのほうが面白いと思いました」
吉田は中長距離の選手として活躍し、3年の春にはポイントレースで全国一に輝く。また2年からジュニアのナショナルチームにも所属するなど、同年代でもトップクラスの実力者となった。しかしこのナショナルチームで屈辱を味わう。
「ナショナルチームには短距離3人、中距離4人の枠があって、最終的に8人が選ばれたんですが、僕の立ち位置は短距離だと4番手、中距離だと5番手みたいな感じでした。だから7人が出られると言われた時には、自分だけ呼ばれなかったんですよね。それがめちゃくちゃ悔しかったです」
ナショナルチームに所属しながらも遠征には1度も呼ばれたことがなかった。その状況にやるせなさを感じた吉田はさらに自転車競技を突き詰めようと、競輪選手を本格的に目指すことを決断する。親からは「大学に行ったほうがいいんじゃないか」と勧められたが、吉田の意志は固かった。
高校3年時に競輪学校(現:日本競輪選手養成所)の試験に合格し、高校卒業後に入学。在学中は「練習がめちゃくちゃ辛くて、時間が経つのがすごく遅かった」と言うが、想像以上にハードなトレーニングにも愚直に挑み続け、記録会では最高ランクのタイムを出した生徒に与えられるゴールデンキャップを獲得。在校成績6位の結果で卒業し、晴れて20歳で競輪選手への道を歩み始めた。
悔しさをバネに20歳で競輪デビューを果たす photo by Hirose Hisayaこの記事に関連する写真を見る
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