「今しかできない」カーリングで生きていく覚悟を決めた藤澤五月の中部電力入りはこうして決まった

  • 竹田聡一郎●取材・構成 text by Takeda Soichiro
  • photo by JMPA

連載『藤澤五月のスキップライフ』
5投目:カーリングで生きていく覚悟を決めた時

ロコ・ソラーレ・藤澤五月の半生、"思考"に迫る連載『スキップライフ』。今回は、中高時代にしのぎを削ったライバルたちについて、さらにはカーリングで生きていくことを決めた、その当時のことについて話を聞いた――。

高校2年の冬、自らの進路について「とても迷った」という藤澤五月高校2年の冬、自らの進路について「とても迷った」という藤澤五月この記事に関連する写真を見る五輪への道を先に歩いていたライバルの存在

 国内外での合宿を経て、カーリングがどんどん面白くなっていく中高時代でしたが、周囲を見渡せば、同世代の選手が活躍し始めた時期でもありました。

 中学校時代には、ちな(吉田知那美)、(鈴木)夕湖、佳歩ちゃん(小野寺/フォルティウス)、(吉田)夕梨花がいたROBINSというチームが日本選手権で2年連続3位という成績を残し、高校時代には、紗也香ちゃん(吉村/フォルティウス)や真央ちゃん(石垣/富士急)らがいたWINSが日本選手権で2年連続準優勝という結果を出しています。

 同世代の選手の活躍は刺激になりますし、特にWINSは2010年バンクーバー五輪のトライアルに出場するなど、明確にオリンピックへの道の上に立っていました。正直に言えば、羨ましかったです。

 私たちは、2018年の平昌オリンピックに出る前くらいからメディアの取材などで「五輪を意識し始めたのは?」という質問をよく受けましたが、実は小学生くらいからその存在というか、漠然とではありますが、「カーリングを続けていれば、辿り着けるかもしれない場所」という認識はしていた気がします。

 というのも、私がカーリングを始めた頃はもう、カーリングがオリンピック種目になることが決まっていましたし、現在の『アドヴィックス常呂カーリングホール』の前の『北見市常呂町カーリングホール』には、壁に「祝トリノ五輪出場・小野寺歩。それに続け!」みたいな横断幕がありました。同じアイスで歴代のオリンピアンが練習している姿もありましたし、その道のりの長さや自分たちの実力を別にすれば、オリンピックやオリンピアンは身近に感じていました。

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