スピードスケート新濱立也ロングインタビュー。漁師になりたかった少年がオリンピアンになるまで

  • 宮部保範●取材・文 text by Miyabe Yasunori
  • 田中 亘●撮影 photo by Tanaka Wataru

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「完走率は50%」の伸び悩みからインターハイ2冠へ

 夏でも日々、氷の上でトレーニングできる帯広近郊と違って、新濱の育った地域のスケートシーズンは短い。数日の合宿で夏場に氷上練習をすることはあっても、雪が降り地元のリンクに氷が張るまでのトレーニングは、陸での練習が主だった。

「中学の時には、釧路のリンクまで保護者に交代で送ってもらっていましたが、それでも氷に乗れるのは11月からです」

 スピードスケートに限らないが、技術が伴わなければ競技力は上がらない。氷の上を滑るという、日常では体験しがたい動きを高めるには、氷の上で研鑽(けんさん)を積むのが一番だ。動きの似ているローラースケートや、姿勢や使う筋肉が近いとされる自転車を使ったトレーニングであっても、氷の上で技術を身につけるのに比べると難しさがある。

 少年時代に氷と接する機会の少なかった選手は、一見、技術系のスキルを獲得しやすいとされる時期を逃していると思える。しかし、反面、技術獲得に貪欲で後年、力を伸ばす余地に溢れる原石ではないかとも思う。

 新濱は、リンクがあり練習環境が整っている釧路市内にある、釧路商業高校に進んだ。

「高校1年の時は一気に練習環境が整って、練習量も質も変わったので、自分のなかで伸びたなっていう実感はありました。ただ、それに満足することはなくて、さらに伸ばそうって思っていました。なのに、2年の時は、勝てる自信はあっても、なんでこんなにうまく滑れないんだろうというくらいひどい成績で。2レースに1回くらいは転倒したり、コース侵害で失格したりして、まともにゴールラインをきれなかった。完走率は50%ぐらいでしたね。

 悔しい思いがあったので、3年の時には、何かを変えないといけないと思いました。当時はインターハイで勝ちたい気持ちが大きくて、スケート部の顧問だった中嶋(謙二)先生といろいろ試行錯誤しながら、コーナーワークの技術アップを中心に取り組みました。まだ身についていない技術や体力を、一から新たにつくり直していき、インターハイで2冠(500m、1000m)を獲ることができました」

 インターハイで勝ちたいと強く思っていた新濱は、恩師との二人三脚で結果を出し、次へのステップを踏み出した。そして、幼少の頃から父や周りの漁師に憧れ、自身も漁師になるつもりだった新濱に新たな目標が生まれた。もっとスケートをやりたいーー。

(インタビュー中編につづく)

【profile】
新濱立也 しんはま・たつや 
スピードスケート選手。高崎健康福祉大学職員。1996年、北海道野付郡別海町生まれ。3歳からスケートを始め、釧路商業高校3年の時、インターハイで500mと1000mで優勝。高崎健康福祉大学進学後、2019年3月のW杯最終戦・男子500mで33秒79を出し、当時の日本記録を大幅に更新。2020年2月の世界選手権スプリント部門で優勝。2022年2月の北京五輪は男子500mで金メダル候補とされたが、20位に終わった。

宮部保範 みやべ・やすのり 
元スピードスケート選手。1966年、東京都生まれ。父親の転勤に伴い、北海道や埼玉県で学生時代を過ごす。埼玉・浦和高校、慶応義塾大学を卒業後、王子製紙に進む。1992年アルベールビル五輪に弟の宮部行範とともに出場し、男子500mで5位、1000mで19位。1994年リレハンメル五輪は500mで9位。

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