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「チームの解散も覚悟した」富士急・小穴桃里の壮絶なカーリング人生 (2ページ目)

  • 竹田聡一郎●取材・構成 text by Takeda Soichiro
  • 藤巻 剛●撮影 photo by Fujimaki Goh

――ほぼ同時期に富士急、当時「チームフジヤマ」の最年少メンバーとして抜擢されます。そのあたりの経緯を教えてください。

「山中湖村にあるカーリングの専用施設『Curlpex Fuji』が2005年にオープンして、同施設を建設した小林宏さん(チームフジヤマの元GM)が『チームを作ろう』と山梨の選手を探していたんです。まだ私は中学生だったので、当初はリザーブ、5人目の選手の予定だったのですが、選手がなかなか集まらなくて『あれ、出られる!?』という感じで、試合に出ていました。そういう意味ではすごくラッキーでした」

――その頃から世界や五輪などを意識していたのですか。

「難しい質問ですね......。『チームフジヤマ』という名前で、『Top of the World』を掲げて立ち上げたチームではありましたから、目標としては持っていました。ただ当時、どれほどの現実味を抱いていたか、というと覚えていません」

――一方で小穴桃里選手自身は、高校2年生の時にカナダでカーリングキャンプに参加しています。

「はい。小林さんと親交の深かったラス・ハワードさん(2006年トリノ五輪 男子カーリング金メダリスト)が主催していたサマーキャンプに。ニューブランズウィック州のモンクトンというフランス語圏の街で、初めての海外渡航にしてはハードルが高い場所でした。でも、日本人が珍しかったのか、現地の子どもたちとたくさん触れ合うことができてとても楽しかったです」

――チームとしても、富士急は比較的早い段階に海外遠征を積んできた印象があります。

「そうですね。なんの結果も出てない頃から、毎年2週間から3週間くらいカナダに行かせてもらって、さまざまなアイスで試合ができたのは、強化という意味では本当に大きかったですね」

――当時はまだ、各選手がそれぞれのポジションを試しながら、チーム作りをしている感じだったのでしょうか。

「そうかもしれません。メンバーも入れ替わったりしながら、高校2年生の時に私がスキップとなりました。ひとりで(ハウスに)立つのに時間がかかった、苦しい時期でもありました」

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