「負けました」と言った羽生結弦の金メダル。ソチで起きた五輪の魔力
短期連載・五輪記者オリヤマの追憶 ソチ(2014年)
男子フィギュアスケートのフリーを終え、天を仰ぐ羽生結弦 photo by JMPA(Noto Sunao) 2014年に開催されたソチ五輪(ロシア)は、その4年前のカナダ・バンクーバー大会に続いて、かなり暖かいオリンピックだった。現地の気温は10度を超えることもしばしばで、Tシャツやノースリーブで会場を歩く選手もいた。
日本は、1998年の長野五輪に次ぐ8個のメダルを獲得したが、スキージャンプ女子ノーマルヒル個人では「金メダル最有力」と目されていた高梨沙羅が、暖冬の影響で苦い結果に終わった。
当時の高梨は、まさに"無敵"状態だった。安定した踏み切りと空中姿勢、他を圧倒する飛距離を武器に、2013-2014シーズンのW杯で開幕戦から4連勝。ソチ五輪直前までの12戦で9勝を挙げ、W杯通算の勝利数を男女通じて日本人歴代最多となる「17」に伸ばしていた。
しかしソチ五輪本番では、ジャンプ台の助走路に異変が起きていた。競技当日も気温が上がったことで、助走路に積もった雪が、みぞれ状態になっていたのだ。そうなるとスキー板との摩擦が大きくなり、体重の軽い高梨の助走スピードは体格に勝る海外の選手たちよりも落ちてしまう。
それに加えて、飛距離を大きく左右する風にも恵まれなかった。高梨の2本のジャンプは、どちらもジャンプ台から飛び立った後に強い追い風が吹き、「後ろから叩きつけられる」ような形となった。そんな悪条件でも1本目の飛距離を100mまで伸ばしたのはさすがだが、課題としていたテレマークもきれいに決めることができず、メダルまであと一歩の4位にとどまった。
競技終了後、高梨がゴーグルの奥で瞳に溜めた涙は、彼女が「勝たなくちゃいけない。期待を裏切ってはいけない」というプレッシャーと戦い続けていたことを示していた。
"天才"と称されることが多い高梨だが、実際は、試行錯誤を重ねて自分のジャンプを磨いてきた"努力の人"という表現のほうがしっくりくる。W杯で勝利を重ねていた高梨も、当時はまだ17歳。初めての五輪で過度な期待を背負いすぎてしまったのかもしれない。2大会目となる平昌五輪では肩の荷を降ろし、納得のいくジャンプを見せてほしい。
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