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潜入! 2020東京五輪の前線基地、ナショナルトレセン (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 石山慎治●写真 photo by Ishiyama Shinji

 NTCの構想は、1964年東京五輪前からあった。だが、五輪後は経済発展が優先され、スポ-ツ振興は後回しにされてしまった。転機が訪れたのが、1996年のアトランタ五輪だった。日本は金3個、メダル獲得総数は14個という惨敗に終わったのだ。

「東京五輪の金16個をピ-クに年々、金メダル数が減り続け、ついにバルセロナ(1992年)、アトランタと続けて金が3個に終わった。このままでは日本のスポ-ツが終わってしまう。そういう危機感を感じ、JOCが文部科学省に働き掛けてNTCをやろうと提案したのです。最終的に設立が決定したのが2000年で、完成は2010年予定になりました。ところが、また転機があったんです。アテネ五輪で金16個を取り、メダリストを連れて首相官邸に大会報告をしに行った時です。そこで小泉総理が『これだけ多くの金メダルを取り、国民もみな感動した。みなさんに何か記念品を送りたい』という話をされたんです。するとJOCの役員が『総理、記念品をいただくと、それで終わってしまいます。NTCを北京五輪までに間に合わせてください』と言ったんです。すると小泉純一郎総理が『分かった、やりましょう』とおっしゃって、そこから建設が前倒しになり、加速していったんです」

 笠原氏は、NTC建設に当たり、アメリカやロシア、ドイツなどを施設を調べたが、参考になるものがなかったという。どれも広大な土地に体育館などが点在し、予算は莫大だった。日本は限られた土地と予算しかないのでコンパクトにせざるを得ず、28競技をいくつかに絞る必要に迫られた。そのためJOCは施設の種目をインドアスポ-ツに絞り、最終的に12の競技団体と話をして、どんな施設が必要か話をしていった。場所は、2001年に北区に完成した国立スポ-ツ科学センタ-の隣に決まった。地方ではなく、都内で選手が集まりやすい場所でなければ意味がなかったのだ。2008年1月21日、地上3階、地下1階の屋内トレ-ニングセンタ-、448名が宿泊可能なアスリ-トビレッジ、陸上トレ-ニング場、屋内テニスコ-トが完成した。北京五輪の開幕、半年前だった。

「理想は、もっと大きな敷地により多くの競技の施設と思ったのですが、敷地が決まっていたので致し方なかったですね。でも、完成して評判がすごく良かった。外国のチ-ムや指導者が非常に高く評価してくださってリピ-タ-で来るようになりました。狭いですけど、密度が濃くて、いろんな情報が共有できる。非常に日本らしいトレセンになったなと思いましたね」

 では、実際、どんな練習環境が整えられているのだろうか。現在、世界トップの内村航平らを擁する体操を例に挙げてみよう。

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