選手を五輪に送り出せるのか。テコンドー分裂問題の今 (3ページ目)
2000年のシドニー五輪で、岡本は銅メダルを獲得した オリンピックは韓国のWTFを中心に回っていく。1980年にIOC(国際オリンピック委員会)は総会においてWTFを採用することに決定。以降、アジア大会正式競技、1988年ソウル五輪公開競技と発展し、五輪の正式種目になったのは岡本が銅メダルを獲得する2000年シドニー五輪からである。
しかし、日本国内でもシドニー前にWTF系列だけで日本テコンドー連盟、全日本テコンドー協会、イーグル会、在日大韓協会、九州の虎会等複数の団体が存在していた。
五輪憲章では、一国家一統括団体の原則があり、各国のオリンピック委員会は国内で唯一の統括団体のみ承認すると定められているため、日本の場合はJOCが認める単一団体からしか五輪へ選手の派遣ができない。
JOCに準加盟していたのは日本テコンドー連盟で、一本化に向けて全日本テコンドー協会と統合、他の任意団体とも協力関係を結んでいった。
■くすぶる分裂の火種。理念を曲げてしまったJOCの判断
しかし、統合後もそれぞれの派閥は存在し、シドニー直前から分裂の火種は燻(くすぶ)っていた。1999年11月には、別の理事を独自に立てる動きも起こり、一時はJOCへの準加盟が取り消されるところまで行きかけた。それでもこのときは、初の五輪出場という大義の前に歩み寄りが見られてひとつの団体となった。
しかし、内紛は収まらなかった。岡本がメダルを持ち帰った2年後の2002年、日本テコンドー連盟の円山和則理事長と森喬伸会長がテコンドーW杯の日本誘致を巡って対立する。競技の発展のために推進しようとする円山理事長側と赤字のリスクを考慮して反対する森会長側が衝突。結果的に推進派が反対派を押し切ってW杯の開催を決めると、組織は分裂した。日本テコンドー連盟は円山派の全日本テコンドー協会、森派の日本テコンドー連合のふたつになったのである。
どこの競技団体でも強化や普及、あるいは経営を巡る運営方針の違いは存在する。しかし、それらは組織内で解決して然るべきものであろう。
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