小説『アイスリンクの導き』第4話 「再出発の日」 (6ページ目)
「今の仕事をすべてゼロにしても、フィギュアスケートの引力はそれだけ強かったと?」
結菜が問いかける。
「そもそも、"このまんまの仕事でいいのかなぁ"とは思っていました。全日本選手権で取材する側に立った時、自分はまだあっち側の人間なんじゃないかって。そう感じ始めたら、僕には耐えられないなって(笑)。どうしたらいいんだろう、と迷っていた時、岡山に戻って、幼馴染の福山凌太が主催のスケート教室にゲストでコーチとして参加したんですけど。その時、子供たちの滑る姿を見て、凌太と話して、気持ちが固まりました」
「スケート教室では、予告せずにミラノ五輪や世界を制した『道』を子供たちの前で滑って、大歓声が起きたとか?」
「あはは。教える側なのに、恥ずかしいです。泣いている男の子がいて、スケート嫌いになってほしくないなって気持ちが昂っちゃって」
「微笑ましい姿が目に浮かびます」
結菜は笑みを作った。カメラでは抜かれていない。翔平のアップだ。
「勝ち負けで淘汰される世界ではあるかもしれないけど、いろんな形でスケートを続ける人がいて、いいと僕は思ったんです。フィギュアスケートはそれだけ魅力的なスポーツですよ。たとえ全日本に出られなくたって、それでも構わない。甘えているようですけど、このスポーツは失敗ばかりだって、励まされるんですから。演技中、何度も倒れ込む選手に、そのたびに拍手が大きくなるスポーツって他にありますかね? 自分はフィギュアスケーターであることを誇りに思っています。優勝でも、最下位でもフィギュアスケーター、全員で構成している世界なんですよ。自分はその一員に戻りたくなっただけです」
「胸が熱くなる言葉です」
「周りにすごい選手がいたから、自分はここまでスケートが上達できたんだと思います。それはライバルもそうだけど、先輩やその前の先輩、前の前の先輩、ずっと前の先輩から受け継いできたものもあるはずで。自分もその一人にすぎないんです。今回はそれを、現役復帰という形で表現するのはどうなのかなって考えたんです。初めてのことなんで、どうなるかわからないですけど」
「星野選手の後に飛鳥井陸選手や三浦富美也選手も続いて、日本の男子シングルは新たな時代を迎えました。この復帰も、フィギュアスケートの新しい歴史の1ページですね」
「ジャンプ一本も跳べずに終わるかもしれません」
翔平はそう言って笑いでごまかした。
「最後に決意表明があれば、お聞かせいただけませんか?」
結菜がファンへのメッセージを促した。
「生まれ変わった気持ちで、新鮮な気持ちでフィギュアスケートを楽しみたいですね。本当に楽しいスポーツなので。7歳で始めた頃や12歳で初めて全国選抜の合宿に呼ばれて、日々、自分の周りが変化していったときのときめきを取り戻したいです。だって、一から始めるわけですから。勝負事なので負けるためにやるわけではないですけど、一瞬一瞬を堪能したいです。十分に満たされて、二度目の現役復帰だけはしないように」
最後はスタジオ全体が笑いに包まれた。結菜が「本日はありがとうございました」と言って、CMに入ったところで、スタッフから拍手が湧き起こった。
すべてを終えた結菜は放心していた。気づくと、なぜだか涙が止まらなかった。それだけ本気で、この仕事をやり遂げることができた。
「大丈夫?」
翔平に気遣われたが、結菜は泣き笑いで応じた。
「うれしすぎると、涙が出るの」
そう言われた翔平は、戸惑った顔をしていた。
結菜は強く願った。この仕事が誰かに届いていたらいいな、と。バトンのように誰かにつながっていたら、それだけで自分がこの世界に存在する理由になる気がした。
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著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。
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