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日本ボクシング世界王者列伝:六車卓也 過酷な日々を戦い続けた悲運の「エンドレスファイター」 (2ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

【反則に泣いた初防衛戦。TKO負けで無冠に】

朴(右)のバッティングにより、六車の顔は腫れ上がったが、最後まで退かなかった photo by Kyodo News朴(右)のバッティングにより、六車の顔は腫れ上がったが、最後まで退かなかった photo by Kyodo News

 六車は、近畿大学の学生になってからボクシングを始めた。21歳の春、プロデビューする。天才型ではなかった。そこから初の世界戦実現まで6年、26戦を要した。ただ、闘志と向上心は人一倍だった。試合数を重ねることで、攻撃力を底上げしていった。馬力は一戦ごとにアップした。パンチ力も大きく向上した。特に左フックはだんだんと凄味が出てきた。ボディ攻撃に磨きをかけ、下から上へ、上から下へと切り返すコンビネーション攻撃にも厚みを増していった。

 スーパーバンタム級(当時ジュニアフェザー級)で日本チャンピオンになったのは、1983年秋。このタイトルを7度守った。しかも、うち6度はKO・TKO勝ちによるもの。世界戦実現に専心するため、ベルトを返上してから1年、準備を上積みした。チャンスを広げるために、さらなる減量も覚悟の上で、バンタム級にもターゲットを広げた。そして実現した六車の世界挑戦は、誰ひとり、文句をつけようもない実績に基づく。

 だからこそ、獲得した世界のベルトを簡単に手放すわけにはいかなかった。しかし、その初防衛戦、アクシデントが六車の足を引っ張った。トップコンテンダーの朴讃榮(パク・チャンヨン/韓国)との戦い、その3ラウンドのことだった。ボディ攻撃に打って出る朴の頭を顔面に直撃された。六車の体は力なくキャンバスに投げ出された。

 ひどく効いていた。立ち上がっても足がふらつく。戦前から朴が頭を先に出してインファイトに入ってくることを警戒していたし、朴側に警告し、レフェリーには厳しく警告してほしいと要請していたものの、実際にそうなってからではもう遅い。

 2分間の休憩後に試合は再開されたが、六車にはまだまだダメージがありありだった。ステップも鈍く、スピードも大きく目減りしたまま立ち直れない。9ラウンドにはディフェンスレスの状態で、つるべ打ちの災禍が1分以上も続いた。それでも六車は立っていた。スローモーションのようでもパンチを打ち返した。それも限界が来る。10ラウンド終了。コーナーに帰る六車の足がもつれる。11ラウンドも全弾被弾状態に陥り、レフェリーは試合を止めた。

 朴の反則ばかりを責めるわけにはいかない。頭を低くして攻撃するという、そういうボクシングで世界1位にまでなったのだ。自分のバッティングで六車に大きなダメージを与えたとしても、攻撃の手を弛めるわけにはいかない。試合続行となった以上は、全力を尽くして倒しにいく。リングの正義とは、そういうものなのだ。

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