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【平成の名力士列伝:普天王】「アマ横綱」の実力と「ブログ」での発信で新たなファン層開拓に貢献した個性派力士

  • 十枝慶二●取材・文 text by Toeda Keiji

場所中も自身のリアルな心境をブログに綴り続けていた普天王 photo by Jiji Press場所中も自身のリアルな心境をブログに綴り続けていた普天王 photo by Jiji Press

連載・平成の名力士列伝41:普天王

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、スケールの大きい四股名と初のブログ力士として注目を浴びた普天王を紹介する。

連載・平成の名力士列伝リスト

【アマでの圧倒的な実績そのままに朝青龍から金星】

 小学生時代にわんぱく横綱となり、日大ではアマ横綱に輝くなどアマ相撲の王道を突き進んだ。大相撲でも新小結で横綱・朝青龍を破るなど活躍を見せた普天王は、初の「ブログ力士」としても注目された個性派力士だった。

 出身は現在の熊本県玉名市で、小1の頃から相撲に打ち込んで頭角を現し、小4でわんぱく相撲全国大会優勝。小5の大会では北の湖親方(元横綱・北の湖)の指導を受け、堂々の横綱土俵入りを披露している。

 中学時代は全国都道府県中学生選手権に熊本県代表として出場して団体優勝。文徳高では5つの個人タイトルを獲得。名門・日大では1年からレギュラーになり、2年時のアマ横綱、4年時の国体成年男子制覇をはじめ個人タイトル11と圧巻の実績を積み重ね、圧倒的な実績を提げて、元関脇・鷲羽山の出羽海部屋に入門した。平成15(2003)年1月場所、幕下15枚目格付け出しで初土俵を踏んだ。幕下を2場所で通過し、新十両で迎えた同年5月場所、本名の内田から普天王と改名。この世のすべてのものを意味する「普天」と、神仏習合の神である「牛頭天王」に因んだスケールの大きい四股名だった。

 平成16(2004)年3月場所で新入幕を果たしたあと、一度十両に落ちるなど足踏みしたが、再入幕2場所目の平成17(2005)年5月場所、東前頭10枚目で11勝して初の三賞となる敢闘賞を獲得。自己最高位の西3枚目で迎えた7月場所は魁皇、千代大海の2大関と新進気鋭の関脇・白鵬も破って10勝し、技能賞を獲得した。

 新小結に昇進した同年9月場所初日には、横綱・朝青龍と対戦。この場所、6場所連続優勝を果たすことになる全盛期の横綱は、前場所まで初日に20連勝と圧倒的な強さを誇っていた。この日も朝青龍が立ち合い、右張り手で先手を取り、左を差して右上手をつかむ十分の形から寄って出る。しかし、左四つは普天王にとっても得意の形だ。左下手を取ってこらえ、下手捻りで泳がせて右上手をつかんで形勢逆転。慌てた朝青龍が右上手を離して強引に下手を切りにきたのを許さず、両廻しを引きつけてグイグイ寄り立て、土俵際、上手が切れるのも構わず体を預けて寄り倒した。

 思わぬ番狂わせに国技館に座布団の雨が降るなか、胸を張って勝ち名乗りを受けた普天王。この場所は5勝10敗と負け越して殊勲賞は逃したものの、181センチ、152キロの均整の取れた体で、左四つに組んで勝機を逃さず一気に出る取り口は、相撲センスにあふれ、将来を期待させた。

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著者プロフィール

  • 十枝慶二

    十枝慶二 (とえだ・けいじ)

    1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。

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