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日本ボクシング世界王者列伝:六車卓也 過酷な日々を戦い続けた悲運の「エンドレスファイター」

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

1987年、関西のジムからは史上2人目の世界王者となった六車卓也 photo by AFLO1987年、関西のジムからは史上2人目の世界王者となった六車卓也 photo by AFLO

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち04:六車卓也

 古くから日本のボクサー最大の美質は、決してあきらめない心にあった。たとえ、技術で劣ろうが、豪打の前にさらされたとしても、肉体が拒絶しない限り戦い続ける。そんな"拳闘精神"は安全管理、残酷感の軽減を第一とする今どきの発想のもとでは、考え直さなければならないと言われていても、日本人ボクサーの礎には不撓不屈のDNAが宿っている。だからこそ、偉大なる時代到来の祝福に浴する今を実現できた。

 六車卓也(大阪帝拳)。別名、エンドレス・ファイター。世界王座在位わずか56日。世界戦戦績1勝(1KO)2敗(2KO)1分。世界レベルでこそ豊かな実績を残せなかったが、この男は日本式"リングの魂"体現者のひとりであることは疑いようもない事実である。

(文中敬称略)

【新チャンピオンの応答は鈍かった】

 1987年、桜の見ごろから新緑へと季節が行き過ぎた頃。新たに世界チャンピオンとなった六車卓也を取材する機会を得た。あの時、大阪帝拳ジム事務室の椅子に座ったチャンピオンは思いのほかに元気がなかった。ひとつの原因には私の質問の拙さにある。応答をこう切り出した。

 これから目指す選手というのはありますか?

「ロベルト・デュラン......」

"石の拳"の異名をとった猛打と、圧倒的な野性味で4階級制覇を達成した世界的大スターの名前を、六車は挙げた。攻撃あるのみ。退くことを知らないボクサーの理想像として、当然あってしかるべき目標だ。

 だが、六車はうつむき加減のまま、次の言葉を発しない。遅まきなが、自分の失言に気がついた。目の前にいるのは世界チャンピオンである。世界で一番に強い男だ。もはや、誰かを目指すのではなく、自分が多くのライバルに目指される存在なのだ。失礼を詫び、取材を続行したのだが、その後も鈍い応答に終始した。

 世界王座獲得時の六車に、世間は必ずしも好ましい評価ばかりをしていたわけではなかった。一部から異議を申し立てる声も聞こえていた。

 当初、挑戦するはずだったチャンピオン、ベルナルド・ピニャンゴ(ベネズエラ)が突然タイトルを放棄し、3月29日に大阪府・守口市民体育館で開催される世界タイトルマッチは直前になって、六車と世界ランク2位アサエル・モラン(パナマ)との世界王座決定戦に変わっていた。そんな試合成立までの経緯に"違和感"があると言うのだ。

 ここで断っておくが、プロボクシングの世界タイトルマッチはあくまで興行である。当時はテレビの放映権料に大きく依存していた。言わば唯一無二の大スポンサーだった。すでに放送枠が決まっている世界戦を簡単に流すわけにはいかない。プロモートする立場として最善の努力をし、急な出場要請を引き受けてくれたのがモランだったし、そのリスクに対して応分の報酬も支払われていたはずである。

 さらに、それらの事情をひっくるめても六車本人に非があるはずもない。そして王座決定戦は、スピード豊かで、思いきりのいい右パンチを振り回してくるモランに対し、六車は左フックのボディブローを切り口に、圧倒的な連打でモランをなぎ倒した。5ラウンドKOの文句なしの勝利を手にしたのも間違いない事実なのだ。

 だが、不穏な声があがった時点で、関西のジムに生まれた2人目の世界チャンピオンの厳しいキャリアは始まっていたのだろう。決定戦を行なう不可避の条件として、世界ランク1位との対戦を早急に行なう必要があった。

 六車の初防衛戦は、歓喜の夜からわずか56日目、5月24日に決まった。厳しいスケジュールである。決して聞きたくはない不当な評価への苦い思い、間髪入れずに決まった大事な戦いへの緊張感。私が会った時点では、すでに不安とともに緊張があったのは間違いない。

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著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

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