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日本ボクシング世界王者列伝:六車卓也 過酷な日々を戦い続けた悲運の「エンドレスファイター」 (3ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

【飽くなきチャレンジも1敗1分に終わる】

 六車の戦いは、もちろん終わらなかった。朴が初防衛戦に敗れると、新しいチャンピオンになったウィルフレド・バスケス(プエルトリコ)に挑んだ。

 1988年1月17日のその一戦、挑戦者はことのほか、好調に見えた。バスケスはのちに3階級制覇する実力者である。強打者だった。老練な技巧派でもあった。カリビアンの正確なパンチを浴びて両目を大きく腫れ上がらせた六車だったが、より前に出て戦っていた。無数のパンチをボディに打ち込んだ。リングサイドからは、ずっと有利に戦ったのは六車のほうだと見えた。

 判定は非情だった。三者三様の引き分け。バスケスの勝ちとしたジャッジはなんと5ポイント差をつけていた。そのジャッジは「(六車の)あのジャガイモのような顔を見てくれ」と言い放ったという。当人からその言葉を直に聞いてきた関係者が大声で叫びながら控え室に飛び込んできて、その場が一気にヒステリックな雰囲気になった。それでも六車自身が無表情だったのも印象に残っている。なお、世界挑戦21連続失敗と日本のボクシング界がどん底の記録を作るのは、この一戦からである。

 最後の戦いになったのは同年10月16日。スーパーバンタム級に階級を上げ、WBA王者ファン・ホセ・エストラーダ(メキシコ)に挑んだ。六車は健闘した。しかし、4ラウンド、右カウンターを食らってダウンしたのが響いた。やがてスピードを失い、守りも甘くなる。11ラウンド、連打で追い上げるところに再び右パンチをカウンターされて倒れ、立ち上がったもののグロッキー。ほどなくコーナーからタオルが投入され、TKO負けとなった。

 引退を決意した。27歳。今の感覚なら早すぎるのかもしれないが、最終戦の試合内容を考えれば、適切な判断と思えた。

 引退後の六車は、恵まれていたのだろう。大手スポーツ用品メーカーのミズノに入社した。海外の企業とタイアップしてのプロジェクトにも起用された。仕事の合間にテレビのプロボクシング中継の解説者もやった。さまざまな場で講演もした。やがて、芦屋大学特任教授に就任し、同大学ボクシング部の監督にもなった。

 大学に新しい職場を得たころ、体調を崩した。肝硬変だった。生体肝移植の手術のために、健康な肝臓は弟から提供を受けた。この病を非公表にする人も多いのだが、六車は「手術を受け、元気になれたことを多くの医師、研究者の方々に伝えたい」と公表した。篤実な人柄を偲ばせるエピソードである。

 私が再び六車に会ったのは2018年のことだったか。大阪帝拳ジムのヘッドコーチになっていた。事情があって大学の職を辞し、「昔の我が家」に帰ってきたという。「まだまだ頑張りまっせ!」と階段を駆け上がってきたあの時の姿が忘れられない。

 それから再び時間は流れた。今はボクシングから離れていると聞いたが、どこかでエンドレスのファイトは続いているのだろうか。六車の人生の挑戦の入り口には常にボクシングあったことだけは確かだ。

PROFILE
むぐるま・たくや/1961年1月16日生まれ、大阪府大阪市出身。近畿大学附属高校時代にはラグビーをやっていたが、近畿大学進学後に大阪帝拳ジムに入門し、1981年4月9日にプロデビュー。14戦目で日本チャンピオンとなり、韓国での東洋太平洋王座挑戦は判定負けで失敗したものの、それ以外は連戦連勝。1987年の王座決定戦でアサエル・モラン(パナマ)にKO勝ちしてWBA世界バンタム級チャンピオンに。不運もあって初防衛戦に敗れ、その後、2度、世界タイトルに挑むも勝ちきれず、引退を決意した。身長166cm。右のファイタータイプだが、巧みな上下打ちを体得した技巧派でもあった。31戦26勝(20KO)3敗2分。

著者プロフィール

  • 宮崎正博

    宮崎正博 (みやざき・まさひろ)

    20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

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