幻に終わったアントニオ猪木との「シルクロード決戦」プランも 西村修のプロレスラー人生を元東スポ記者が振り返る
追悼・西村修 前編
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第14回は、がんのために2月28日に逝去した西村修さん。親交のあった柴田氏が西村さんの新人時代、1回目のがんとの闘い、やさしさがわかるエピソードなどを語った。
若き日の西村修とテリー・ファンク photo by 東京スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る
【山本小鉄の「新日本プロレス学校」入学時も「期待されていた」】
――西村さんとのお付き合いはいつからですか?
柴田:彼が「新日本プロレス学校」に入門した頃から存在は知っていました。本格的な付き合いは、1991年4月にレスラーとしてデビューしてからですね。
――昔は新日本にプロレス学校があったんですか?
柴田:1988年4月に山本小鉄さんが開校したんです。高校生や現役のアスリート、格闘技経験者が、小鉄さんから直接指導を受けられるプロレスラー養成所。天山広吉やザ・グレート・サスケもその学校出身ですよ。そのまま新日本プロレスの練習生になる人もいるし、他団体に行く人もいましたね。
――新日本プロレス学校はどうして開設されたんですか?
柴田:プロレスラーになりたい入門志願者はけっこういたんですが、当時は「身長180cm以上」という条件がありました。身長が足りない人は、アマレスや格闘技など輝かしい実績がないとデビューするのは難しい。それに、卒業してからだと他団体にスカウトされてしまうかもしれないから、逸材を確保する目的もあったと思います。基礎レベルを身につけておけば、入門テストで受かりやすいですしね。
――その学校に西村さんが入った時から知っていたんですね。
柴田:イイ男だし、身長も180cm以上あった。まだ体は細かったけど、期待されていましたね。
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