日本ボクシング世界王者列伝:浜田剛史 強打ゆえのブランクを経て頂点に辿り着いた不撓不屈の「KOのカリスマ」 (2ページ目)
【骨折による2年のブランクから這い上がってきた】
王者アルレドントに1回終了間際のラッシュでKO勝ち photo by Kyodo News 多くのサクセスストーリーがそうであるように、その道すがらを苦難とともに歩んだ。
沖縄水産高校3年生の時にインターハイ優勝。日本随一の名門、帝拳ジムに入門。デビュー3戦目、のちに日本チャンピオンになる今井房男(楠三好)に判定で敗れるつまずきはあったが、そのほかの戦いはすべてKO勝ちを飾った。強烈な左ストレートを有する魅惑のスラッガー誕生と大きな期待を集めた。1980年秋には10回戦に進出。だが、翌年5月、思わぬ横やりが入る。1981年の夏だった。デオ・ラバゴ(フィリピン)との一戦。KO勝ちを収めながらも左拳を骨折した。
すぐに手術が施されたが、その後のブランクは長引いた。練習再開とともにまた骨が折れた。1度は再起戦が決まりながら、4度目の骨折で試合を流し、リングを留守にした期間は2年にも及ぶ。
ラバゴ戦が20歳。ボクサーとしての伸びしろが一番に開拓される頃。そんな大事な時期に戦いたくても戦えない。やり場のない憤懣(ふんまん)から、遊興に身をやつしてもいたしかたない。だが、浜田はそうしなかった。
「サンドバッグを右拳ばかりで打ってましたから。おかげで、右のパンチはずいぶんと上達できました」
ジムワークを欠かさなかった。今できることだけに集中した。それが未来の糧になった。
カムバックと同時に快進撃はリスタートされる。バタバタと倒しまくった。1984年9月、元世界王者のクロード・ノエル(トリニダード・トバゴ)を4ラウンドに沈めて、それまでの日本記録を抜く13連続KOの日本記録更新を果たした。さらにベテラン技巧派、友成光(新日本木村)を7ラウンドKOに下して日本ライト級タイトルを獲得するなど、このレコードを15にまで伸ばした。浜田が作った日本記録は、現在も比嘉大吾(志成=元WBC世界フライ級チャンピオン)らふたりに並ばれながらも破られてはいない。
もはや、ターゲットは世界王座しかなかった。もとよりライト級での減量は厳しく、スーパーライト級に転向して望みの先を見つけた。しかし、苦難はまたやってくる。右ヒザの半月板を損傷。再び手術したのだが、その後、この傷は完全には癒えることがなかったのかもしれない。また、アルレドンド戦が決定し、世界戦まで1カ月を切ったころ、ジムで倒れたきり立てなくなった。オーバーワークがたたったのだ。思いきって休むことでなんとか回復したが、拳の古傷、ヒザの故障の再発不安など、まさに傷だらけの世界アタックだった。
浜田が世界チャンピオンの座にあったのは、丸1年に欠けること2日。その間にこなした防衛戦は一度。アルレドンドとの再戦にTKOで敗れ、それがラストファイトになった。苦難のキャリアを考えれば、十分に報われたのかどうかはわからない。ただ、長くファンの記憶に残る戦慄KO劇によって、世界最強のウェイトクラスとも言える中量級の頂点に初めて立った事実は、偉大な業績として今もまだ、大きく評価される。
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