佐竹雅昭のための大会、K-1グランプリが初開催 無名のキックボクサーの拳に「痛ぇ! なんだこのパンチは!」 (2ページ目)
【周囲の励ましに「自分がやってみろよ」】
空手界で実力を知らしめ、ドン中矢ニールセンをキックボクシングルールでKOして格闘技ファンに知られ、リングス参戦でプロレスファンにもその名が浸透した。さらに佐竹は、テレビ出演、雑誌のコラムなどで格闘技を見ない一般大衆にも名前が広がり始めていた。
「K-1」は佐竹のためのイベントと言っても過言ではなかった。具体的な話を聞いたのは、ベントが開催される1993年の4月初旬頃だったという。
「館長から『フジテレビと一緒にLIVE UFOの中でK-1っていうのをやるんだ』と聞きました。僕も格闘技の人気が出てきたことを実感していましたし、何か起爆剤になる大会があれば、さらに大ブームが起きる予感はありました。
僕自身も、世間で人気が上がっていることは自覚していました。あの頃は、マスコミの仕事をしながらも稽古を欠かさずやっていましたし、我ながらよくやっていたと思いますよ」
初めてのK-1には、日本の空手界から佐竹と後川聡之が、ムエタイからチャンプア・ゲッソンリットが参戦。さらに、後にK-1を盛り上げるオランダのピーター・アーツやアーネスト・ホースト、クロアチアのブランコ・シカティック、アメリカからモーリス・スミスも出場。そこに、本職はアメフトの選手で、アマチュアボクシングのアメリカ代表候補にもなったトッド・"ハリウット"・ヘイズを加えた8人が、一夜のトーナメントで優勝を争った。
優勝までは1日で3試合を強いられるため、試合形式は3分3ラウンド。KOも10カウントではなく5カウントというルールとなった。優勝賞金は10万ドル(当時のレートで約1100万円)だった。
迎えた試合当日。会場の代々木第一体育館は超満員の観衆で埋め尽くされた。佐竹は、1回戦で米国のトッド・ヘイズと対戦した。
「トーナメントに関しては、空手で1日6試合といったことを何度も経験していたので、『なんとかなるだろう』と思っていました。ただ、正直なところ『勝てるかどうかはわからない』と考えていました。ニールセンとやってから3年でいろんな選手と戦ってきて、みんな強いと思っていたからです。
1回戦の相手だった選手も、試合前には周りから『楽勝だよ』なんて言われて......僕を励ましてくれようとしているのはわかりましたが、『いやいや......自分がやってみろよ』と思ってましたよ。案の定、闘ってみると、本職がアメフトで体はデカイし、パワーがあって強かったです。ファイターたちはみんな必死で来ますから、絶対に倒せる保証なんかないんです」
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