アントニオ猪木から「お前を第一号の選手にする」佐山聡が振り返る「一生忘れられない」言葉 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 東京スポーツ/アフロ

【猪木さんからの「一生忘れられない」言葉】

 この試合前、佐山が「一生忘れられません」と明かす、猪木さんからの指令があったという。

「ウェプナー戦の前に、猪木さんのマンションにオープンフィンガーグローブを持っていた時です。僕は猪木さんに『新日本が市民権を得るために、セメントでやる競技を新日本の中に作りましょう』と訴えました。その時、猪木さんは黙って聞いているだけでしたが、何日か後に猪木さんがあるルールブックを持ってきたんです」

 そのルールブックは、米国のキックボクサーであるベニー・ユキーデが作った「マーシャルアーツ」のものだった。猪木さんはそれを佐山に手渡し、こう告げた。

「これから、俺はこういうことをやる。お前を第一号の選手にする」

 猪木さんは新日本の中に「格闘技部門」を作る構想を打ち明け、佐山を最初の選手に指名することを打ち明けたのだ。この話を語る佐山の顔が、にわかに紅潮した。

「猪木さんから『格闘技部門の第一号にする』と言われたのですから、僕は有頂天ですよ。自分の理想が実現するんだ、という喜びと、猪木さんに認められたという思いで、うれしくてたまりませんでした」

 猪木さんの言葉を信じ、佐山はさらに「総合格闘技」の技術を追求し、やがては独自のルールを構想。そして1983年8月に新日本を退団すると、新格闘技「シューティング(後の修斗)」を立ち上げ、現在の総合格闘技の祖になった。

「すべては、あの時の猪木さんの言葉が原点です。猪木さんから言われなければ、この格闘技につながる道はありませんでした」

 1977年、猪木さんからの「言葉」を受け取った佐山は、「格闘家」として闘いを挑むことになる。

(連載4:佐山聡が反則連発の「実験」 キックボクシングの試合で敗戦もアントニオ猪木は「よくやった」と褒めたたえた>>)

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る