新日本とUインターの対抗戦で、武藤敬司が髙田延彦に繰り出したドラゴンスクリュー。それを見た藤波辰爾は「技の入り方が違う」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

【技の入り方の違い】

 ゴッチ直伝のその技は、ニューヨークでベルトを奪取し、凱旋帰国したあとに実戦で使うようになった。当時は同じ技を使う選手がほとんどいなかったため、藤波のオリジナル技と認知され、ニックネームの「ドラゴン」を冠にしてドラゴンスクリューと命名された。令和の今も技の名前は変わらず、多くの選手が使っている。

 ただ藤波は、自身と武藤では「ドラゴンスクリューの入り方が違う」と話した。

「僕はゴッチさんから教えられたように、相手の足の根元のほうを持って、両足に挟み込むようにして投げていた。一方で武藤は、相手のかかとのあたりを持って投げるんです。武藤の入り方だと、相手との間により空間ができるから、より自由な状態で回転できる。だから、よりダイナミックで派手に見えて、お客さんを惹きつけるんです。僕から見ても、武藤のドラゴンスクリューはうらやましいぐらい派手ですよ(笑)」

 この髙田戦以来、「ドラゴンスクリューからの足4の字固め」は武藤の必殺パターンとして定着した。

「武藤のセンスがあったからこそ、ドラゴンスクリューが一世を風靡したんでしょう。武藤じゃなかったら、あそこまでの技にはならなかったと思います。武藤にも『藤波さん、ドラゴンスクリューは僕がやったから世に出たんですよ』って言われたことがあるんです。確かにそうだと思いますし、反論はありません(笑)」

 さらに藤波は、格闘スタイルの「UWF」を足4の字で倒したことにも賛辞を送った。

「足4の字固めは、ザ・デストロイヤーの時代から、プロレスファン以外の人でもその痛さを知っているくらいの、プロレスの典型的な技です。その技でUWFを破ったことに価値がありました。もし、あの試合をムーンサルトプレスで決めていたら、今も伝説として語り継がれるような試合にはなっていなかったと思います」

 プロレス史に残る勝負を制した後、武藤は全日本に電撃移籍。以降もいくつかの団体を移り、長期欠場もありながら名勝負を重ねていった。そして60歳となった今、いよいよ引退の時を迎える。

(連載5:武藤敬司の全日本移籍時、新日本の社長だった藤波辰爾が明かす「驚きはなかった」本音。プロレス愛を貫いた「天才」の引退にメッセージを贈った>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。

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