両親の激しい口論。父が発した衝撃の言葉......。傷ついた朱里が辿り着いた「リング」という輝ける場所 (4ページ目)

  • 尾崎ムギ子●文 text by Ozaki Mugiko
  • 林ユバ●撮影 photo by Hayashi Yuba

 女優を目指していた時は、出演できても小劇場だったが、プロレスデビューしてからは、両国国技館やさいたまスーパーアリーナといった大舞台で試合をした。たくさんの人の前で輝く場所がある。そして応援してくれるファンの存在が、朱里にとっては大きかった。

 日々の練習は、師匠・TAJIRIにプロレスの技術を教わったあと、格闘技の師匠・小路晃の練習が始まる。腕立て伏せを500回、そして小路をおんぶして坂を上った。当時の朱里は55kg、小路は100kgを超えていた。腰が壊れるかと思った。アルバイトもしていたため、寝る暇もなかった。本当に死んでしまうんじゃないかと思ったが、自らキックボクシングのジムにも通い始める。もっともっと練習しなければ、強くならなければという思いがあった。

「プロレスラーが勝てるわけない」という声を見返してやる

 2009年12月、ハッスル活動休止後、TAJIRIらとともに朱里は新団体「SMASH」を旗揚げ。朱里という名前にしたのもこの時だ。「SMASHでの経験は宝箱」だという。

「ひと言で言えば、人間ドラマ。自分は華名さん(現・WWEのASUKA)とライバル関係でしたが、華名さんとだからいい試合ができたし、2人の世界を創りあげることができたんだと思います。他の人だったらああはならないし、華名さんがいてくれたから、SMASHがあったからいまの自分がある。いつかまた華名さんと試合したいです。華名さんに負けないように、自分ももっと輝いていきたい」

 2012年1月、Krushでキックボクシングに初参戦する。シュートボクシングの試合には2回出場して勝っていたが、格闘技とプロレスを両立するのは難しいと感じた。プロレスもまだ自信を持って見せられていないのに、格闘技をやることはできないと思った。TAJIRIにも「プロレスに集中してほしい」と言われた。

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