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山口香が語る「わきまえない」発言が必要な理由。選手時代の苦い思い出 (2ページ目)

  • 村上佳代●取材・文 text by Kayo Murakami

目視できることは再現できる

遠藤 山口さんは引退後、全日本柔道連盟女子強化コーチを務めるなど、指導者としても活躍されてきました。現役時代から将来のプランは考えていたんですか?

山口 私が柔道をはじめたときは習い事の1つにすぎなくて、将来柔道で食べていくイメージはまったくありませんでした。「これからの人生で柔道をどう位置づけていくべきか」を初めて考えたのは、大学を選ぶタイミング。それまでトップランナーとして走ってきたけれど、私が引退したあとに女子柔道を体系化して確立するために必要なのはなんだろう、と考えて、女性の指導者が必要だと思ったんです。

遠藤 それで、指導者になるための勉強ができる筑波大学を選んだ?

山口 筑波大学の前身である高等師範学校は柔道創始者の嘉納治五郎(かのうじごろう)が初代校長を務めた、いわば柔道の本流です。そこで私が指導者になるために学ぶことは、次の女性柔道選手の道にもつながっていくはず。その道をつくることが私の役割の1つだと思いました。

遠藤 まだアスリートのセカンドキャリアがさほど注目されていなかったなか、山口さんが道をつくっていったわけですね。引退時は、現役への未練はなかったんですか?

山口 私の柔道での目標は世界チャンピオンになることでした。男子に比べて脆弱だった女子の競技環境を整えていくためには、試合に勝って、女子柔道も価値あるものだということを示す必要がありました。世界チャンピオンになれば社会の注目を浴びて、柔道界も黙っていられなくなるだろうと考えたんです。誰か1人でも天井を突きやぶれば、次に続く人が出てくるはず。陸上男子100mで桐生(祥秀)選手が日本人で初めて9秒台を記録したら、一気にサニブラウン選手、小池(祐貴)選手と続いたように、目視できることは再現性があると言いますよね。だから、1984年、世界選手権でチャンピオンになって目標を成し遂げたあとは、もう役割を果たしたかなという気持ちがありました。

 とはいえ、オリンピックに出るチャンスがあれば出ておくことも大事だなと思って。(1988年の)ソウルオリンピックまでは頑張ろうと思い、続けました。

遠藤 そして、銅メダル獲得という結果を出して引退された、と。山口さんの場合、目の前に次々と新しい壁が出てきて、それを1つずつ乗り越えながらキャリアを形成してきたんですね。

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