力道山が刺された日。妻が聞いたアントニオ猪木を認める言葉と幻の計画 (2ページ目)
当時の力道山は、自らが赤坂に建設した「リキ・アパートメント」最上階の8階に住んでいた。同じ敷地内には若手選手たちが住む日本プロレス合宿所があったが、力道山が自宅に入れることを許していたのは猪木だけだった。
猪木が回想するように、敬子さんも力道山の"鉄拳指導"は目の当たりにしていたが、当時は「期待の大きさの表れ」と考えていたという。
「主人は、自分の息子に対する教育もスパルタでした。自ら地球の裏側のブラジルから連れてきた猪木さんも、息子と同じように思っていたから、指導が厳しくなってしまった側面もあるのでしょう。猪木さんからしてみれば、『スカウトされて入門したのに、なんで殴られなきゃいけないだ』と思ったでしょうけど、主人なりの愛情なんだと考えていました」
敬子さんが「忘れられない出来事」として話したのは、力道山が暴力団員に刺された昭和38年の12月8日の出来事。この日、大相撲の元横綱・前田山の高砂親方が自宅を訪れた。目的は、前年に行なわれた大相撲ハワイ巡業を力道山がバックアップしたことへのお礼だったが、酒を酌み交わしながらの話し合いで、力道山は高砂親方に対して猪木の大相撲入門を頼んだという。
「当時の猪木さんは細身だったので、主人は『体を大きくさせてやりたい』と考えていました。ですから、相撲界に2年ぐらい預けて、体が大きくなったらプロレスに戻す計画を立てていたんです。それを、高砂親方に頼んで承諾してもらっていました。私もその会話を傍で聞いていましたから、間違いありません」
その宴席には猪木も呼ばれており、「高砂親方が猪木さんを見て『リキさん、こいついい顔してるね』って主人に言ったんです。すると主人は、ニコッと笑って『そうだろ』と返したんですよ。猪木さんが褒められた時の、あの喜んだ顔は今も忘れられません」
その場面について、猪木はのちの取材でこう述べている。
「あの時の『そうだろ』のひと言があったから、今の俺がある。なにしろ、それまでは師匠が俺のことをどう思っているのかわからないんだから。あのひと言があったから、『俺は師匠に認められているんだ』っていう自信が出て、何とかレスラーとしてやっていくことができた」
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