【国際プロレス伝】ルー・テーズの筋肉は、鋼鉄ワイヤーのようだった
【第36回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」
国際プロレスでのデビュー戦で、グレート草津をバックドロップで失神KOさせたルー・テーズ。アニマル浜口は「鉄人」から発せられる殺気に、勝負の怖さ、プロレスの厳しさを感じたという。ルー・テーズの目の前で初めて試合をしたとき、アニマル浜口はどんな思いでリングに立ったのか――。
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ルー・テーズは新日本プロレスでレフェリーも務めた「鉄人」ルー・テーズ(2)
1973年10月14日、ルー・テーズはカール・ゴッチと組み、新日本プロレスのアントニオ猪木&坂口征二組と「世界最強タッグ戦」を敢行する。さらに1975年10月19日には、アントニオ猪木が保持するNWF世界ヘビー級にも挑戦した。どちらの試合も敗れたものの、猪木に敗れたときのルー・テーズは59歳。健在ぶりをアピールし、日本のプロレスファンを大いに沸かせた。
「坂口さんや猪木さんに極(き)めた伝家の宝刀バックドロップ――。テーズさんが『ヘソで投げる』を極意としていることは有名でしたが、ドンピシャのタイミングでスピードがありました。いくら教わっても、ちょっとやそっとではマネできない。
僕がテーズさんを見るようになったのはピークを過ぎた晩年でしたが、それでもプロレスラーが惚れ惚れするような肉体でした。筋(すじ)ばっていて、ボディビルでいえば、『バルク型』ではなく『ディフィニション型』というんですがね。鍛え抜かれていて、ぜい肉もまったくなく、筋肉と鋼鉄のワイヤーのような筋でつくられた身体。あの肉体を見ただけでも、僕にとっては財産でした」
1980年9月8日にアメリカ・ケンタッキー州ルイビル・ガーデンでビル・ロビンソンのCWA王座に挑戦したテーズは、熱戦の末、ロビンソンにローリング・クラッチを極(き)められて王座奪取を逃す。その後、「最後のタイトルマッチを戦った相手がビル・ロビンソンで幸福であった」との言葉を残し、セミリタイア状態に入っていた。アニマル浜口が鉄人に接したのは、1981年に国際プロレスが開催した「ルー・テーズ杯争奪戦」の開幕戦でテーズがレフェリーを務めたときだった。
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