【国際プロレス伝】ルー・テーズの筋肉は、鋼鉄ワイヤーのようだった (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

「僕とベン・アレキサンダーの試合で、たしか僕がエアプレーン・スピンで勝ちました。あの技は吉原功(よしはら・いさお)社長から『この技をやれ! おまえの必殺技にしろ!』と言われていて、もともとはテーズさんの得意技でした。何か縁みたいなものを感じます。

『ルー・テーズ杯争奪戦』は若手の登竜門で、アピールの場でした。テーズさんがレフェリーをしてくださったり、リング下から見ていてくれると、僕たち若手は『よし、俺もルー・テーズに認められてやる!』と気合が入ったもんです。雲の上の、偉大なレスラーでしたからね」

 1980年代、ルー・テーズはたびたび来日し、全日本プロレスや新日本プロレスでレフェリーや立会人を務めていた。その一方で、アメリカではオールドタイマーズ・バトルロイヤルなどにも出場している。

 そして1990年12月26日、静岡・浜松アリーナで「愛弟子」の蝶野正洋と新日本プロレスのエキシビションマッチで対戦。最後は自ら伝授したSTF(ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック)を極められて引退。不世出の名レスラーとして6000試合を戦った現役生活に別れを告げた。

 その後、テーズは1996年に30歳年下の女性と再婚し、2002年3月にはU.W.Fスネークピットジャパン代表・宮戸優光の結婚式に出席するために来日。元気な姿を見せていたが、そのひと月あまり後の4月28日、フロリダ州オーランドの病院で心臓疾患によって他界した。享年86歳。肉体を酷使してきたプロレスラーとしては長命を全うしたといえる。

「今回のルー・テーズをはじめ、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチ、モンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)バーン・ガニアなど、これまで国際プロレスにゆかりの深い外国人レスラーを紹介してきましたが、国際プロレス16年の歴史のなかでは他にも多くの外国人レスラーがリングに上がって活躍しました。

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