【ハイキュー‼×SVリーグ】Astemoリヴァーレ茨城の長内美和子が語る中心選手としての覚悟 落ち込んだときの支えは田中龍之介の言葉
Astemoリヴァーレ茨城 長内美和子
(連載13:日本製鉄堺ブレイザーズ上村琉乃介は劣勢でこそ燃える 日向翔陽のように「戦える選手になりたい」>>)
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「目標は"チームの象徴"というか、そういう存在になるということです。『このチームで勝ちたい』って思いは強いし、今年で私は9年目でキャリアも(チーム内で)一番長くなったので。でも在籍年数だけじゃなくて、結果を出して『誰が見ても中心。いなくちゃいけない存在』ということをプレーで示していきたいです」
長内美和子は、長くバレーボールの世界にいる自負をさわやかな笑顔の中に込めた。現在のチームポスターでもセンター。日本代表としてワールドカップ、ネーションズリーグに出場した経歴は伊達ではない。それでも、彼女が目指す理想像があるのだろう――。
長内は、正真正銘の"バレー少女"だった。母親はママさんバレーをやっていて、7歳上の兄の試合も応援に行った。幼い頃からバレー漬けの生活で、小学3年で名門の「東金町ビーバーズ」に入部したが、入る前から「バレーがしたい」とうずいていたという。
「最初は『自分もやってみたい』という単純な好奇心でした。幼い頃からコートの端っこでボールを触ったり、子ども同士で下手くそでもつないだり。それが楽しかったので、『早くやりたい!』って。バレーが大変な競技なことは兄にも聞いていたんですけど、最初はボールを使った遊びがメインだったし、『できないことも楽しい』って夢中になりました」
彼女は、バレーに恋をした。
「できることが増えていく楽しさがありましたね。ビーバーズは練習メニューを全員でやるので、誰でもクイックやブロードを打つし、いろいろやるなかで『これも、あれもできる』となっていく。たとえば、サーブをアンダーで打っていたのがフローターで打てるようになり、そこからジャンプフローター、ジャンプサーブになる、といった過程がすごく楽しくて」
好きこそものの上手なれ。それが彼女の天分だった。
「楽しくやっている時は『うまくいっている』と感じるので、そこを大切にしながらやっています」
長内は言うが、不運に見舞われたこともあった。
「これまでほとんど経験していないんですが、高3の時は病気やケガなどで、常に何かと戦っている感じでした。インターハイ前には喉の痛みで緊急入院を勧められたし、大会の初戦は意地で勝ったんですが、今度は(足底筋膜炎で)足を着くことすらできなくなっちゃって。開催地の大阪で鍼灸師の方にお世話になりながら決勝まで進み、準優勝でした。
春高バレーの前も、左足首の捻挫で跳べなくなってしまって。でも、チームが勝ち上がるなか、テーピングでぐるぐる巻きにして準決勝に出してもらったんです(試合には敗れてベスト4)」
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著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。